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2020年

1月

07日

「留守の家から犬が降ってきた」

著者:ローレル・ブライトマン

訳者:飯島貴子

 

心の病による症状から、筆者の愛犬は留守番中に自宅の窓ガラスを突き破って転落した。

愛犬の死をきっかけに筆者は心を病んだ動物たちの調査を始める。

 

ペット・動物園・サーカス・実験動物…

 

その調査の幅の広さ、綿密さ、深い論考と問題提起、現代社会とペットオーナーへの提言の適切な鋭さは称賛に価…するけど、White Fang はこの本は称賛しない。

 

こういう筆者を褒めてはいけないのである。

 

 

 こんなことさせられたら

  病気になるわな

 

 

White Fang 

OCDという病気がある。不必要な行為だとわかっていてもそれを執拗に繰り返してしまい、日常生活に支障が出る。主に不安を発端とするもので、不安を解消しようとして何度も戸締りを確認したり、手が擦り切れてもそれでも何度も繰り返し手を洗ってしまう。

 

2019年5月の JW Broadcasting にもそんな兄弟姉妹が出ていた。

 

この本を褒めるということは、OCDの人に「キレイに手を洗ってえらいね!その調子で隅々まで洗って殺菌してね!」と言うようなものである。

だから褒めてはいけない。何の意味もないし、解決にならない。

むしろ余計に悪くなるかもしれない。

 

 

 「私たちは何者で、どこから来て、

   どこへ行くのだろう。」

 

 

 「…さあな。」

 

 

  White Fang 

 

 

確かに愛犬の死は衝撃だったろう。

しかし、どんなに精力的に、こころの病にかかった動物の調査をしても、

そこから学んでも、学んだことを本に書いても、愛犬は還ってこないのだ。

 

自分がしっかりしていなかったから愛犬が死んだという罪も、

こんな立派な本が書けるほどの調査研究をしたところで濯げるわけではない。

というか、そもそもこれは濯がねばならぬような罪ではない。

 

愛犬が死んだ、ただそれだけのことだ。

 

つまり、この本の存在自体が筆者の手洗い行為なのである。

必死になって手を洗い続けた結果、この本が出来上がった。

不安と悲しみと罪悪感を必死になって濯ごうとした結果、この本が出来上がった。

ペットの死を悲しむことを否定しているのではない。

悲しいからといって自分の人生を棒に振る程何かに没頭するのはよくないということだ。

 

OCDでもペットロスでなくても、このパターンで自分を苦しめている人は多いと思う。

 

周囲の人はこういう人がネガティブなきっかけを動機にして没頭している行為や、

それによって成し遂げられた事柄を褒めてはいけない。

 

例えば会衆に、愛する人の死について自分に責任があると思っていて、楽園でその人の復活を出迎えて、開口一番謝罪しなければならないという思いで必死に開拓奉仕をしている人がいるとしたら、その人を「開拓を頑張っている」ということで褒めてはいけない。

ネガティブな動機で行動するパターンが強化されるだけで、そんなことを褒めても少しもその人は幸せにはなれない。

楽園も復活も、神の主権の立証についてくるおまけみたいなもので、奉仕の目的はそこにある。励ますならその視点だ。

 

そして幸せになるには、もっと根本的に、悲しみや不安を解消しなくてはいけない。

 

不安を解消するには、事実を真正面から受け入れるのが第一歩である。

 

ペットロスの場合の事実とは

① 動物は死ぬ。楽園になっても死ぬ。

② 動物は復活しない。

  どうせならいっぱい食べちゃえ
 どうせならいっぱい食べちゃえ

 

 

 それを食べた日に

  あなたは必ず死ぬ。

 

創世 2:17

 

 

 

White Fang 

動物が復活しないのは、次の聖句からわかる。

 

ヨブ 1章2,3節

ヨブには7人の息子と3人の娘がいた。所有していた家畜は、

羊7000匹、ラクダ3000頭、牛1000頭、ロバ500頭だった。

 

ヨブ 42章10,12,13節

エホバは、ヨブが以前に持っていたものを、2倍にして与えた。

ヨブは、羊1万4000匹、ラクダ6000頭、牛1000対、

雌ロバ1000頭を持つようになった。

さらに、息子7人と娘3人を持つようになった。

ヨブが失った動物は2倍になっているが、子どもたちの数は元のままだ。

理由は、試練の時に死んだ子どもたちは復活するから。

復活してきたら最終的にヨブの子どもの数は2倍だ。

 

逆に考えれば、動物は復活しない。

動物は罪を犯さないけど、命の木の実を食べないから、楽園になっても死ぬ(創3:22)。

 

 

 ペットとの関係より

 

  たいせつなものがある

 

 

White Fang 

死んだペットに関する不安を解消する他の方法は、不安に支配されている自分に、死んだペットが何か一言もし言ってくれるとしたら何と言うだろうかと考えることである。

 

育て方や飼い方について不平や不満を言うところが想像できるだろうか。

もっともっと手洗い行為に没頭して苦しんで罪を償えと言うだろうか。

 

決してそんなことはない。

 

窓から飛び降りて死んだ筆者の愛犬オリバーもきっとこう言うだろう。

 

「もう元の生活にもどって幸せになっていいんだよ」

2017年

1月

17日

「だれか、 ふつう を教えてくれ!」

著者:倉本智明

 

弱視から全盲になった著者の障害を通して、大多数のひとがふつうとか常識とか言っているものが本当にふつうで常識的なのか問いかけるという、「五体不満足」みたいな本。

 

いわゆる健常者がふつうで、障害がある人はふつうじゃないのだろうか。

弱視のひとは全盲のひとよりも少々ふつうに近いからまだましと言えるのだろうか。

 

10代の子どもたち向けの平易な文体だが、ふつうとは何か深く考えさせてくれる。

 

では、クリスチャンの視点からみた場合、ふつうとは何だろうか。

 

 ニュージーでは

 

 この値段が普通。

 

 キウイ1個当たり18円くらい。

 

 

        White Fang 

クリスチャンの、現在の命に対する見方を一言で表すとすれば、

 

「こんなはずじゃなかった」 ではないか。

 

もともと完全に永遠に生きられるはずだったのに、だれかさんのせいで完全性も永遠性も失った結果が、死にゆく自分の命も含めた今の世界だ。なんてこった。

 

不完全な自分の愚かさや、同じように愚かな人ばかりで社会が出来上がっているという現状、その愚かさを恥ずかしげもなく垂れ流すテレビやネットその他のメディアに触れると

 

「こんなはずじゃなかった」 の一言である。

  

ローマ 8:20、22

創造物は虚無に服させられました…(中略) 22 わたしたちが知るとおり,創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです。

 

そう。クリスチャンにとってのふつうは、完全で永遠に生きられること。

 

身体障害が無くても、精神障害が無くても、知的障害が無くても、内部障害が無くても、

どんなに健康で髪の毛がフサフサでも、いまの命は所詮ふつうじゃないのである。

不完全な人間でできた社会は何をどう頑張ってもどうせふつうじゃないのである。

 

注意したところで…

  

 

 普通以上の注意を払い,

 決して流されないようにすることが

 必要です。

 

 

  新世界訳聖書 ヘブライ2:1

 

 

White Fang 

 

自分のことだってふつうじゃないと思っているのだから、相手がどんなひとであっても、どんな状況にあるひとだとしても、差別もなにもない。あるのは希望だけだ。

 

 

コロサイ3:11,12

そこにはギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです。12 したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。

 

みんなで、このふつうじゃない状態から抜け出したい!

 

そう思っているからこそ障害の有無大小にかかわらず誰とでも互いに助け合えるし、

誰にでもこころからの愛を示すことができる。

 

クリスチャンだったら、ふつうはそう思う。

 

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2015年

12月

24日

「おふろやさん」

作者:西村繁男

 

 

図書館で何度も読んだ絵本。読んだと言っても文字は最初の頁にしかなくあとは絵だけ。

自分で絵に合わせてお話を作って読んでいた。貸出中になっていたときは心の底からがっかりしつつも、あの本ならほかにも読みたい子がいるだろうなと妙に納得していた。

 

そうしてこの絵本で育った子は銭湯が好きになる。当然の成り行きだろう。

 

しかし、幼少期に慣れ親しんだ近所の銭湯(三吉湯)も、風呂無しトイレ共同の木造アパートに住んで開拓をしていた時代にかよった、レトロ感百点満点の鶴ヶ丘湯も道灌湯も、今では跡形も無く建売住宅とマンションに姿を変えた。

 

さみしい。実にさみしい。

残っているのはテルメ末広くらいだ。

王道はコーヒー牛乳だぞ。
はやくフルーツ牛乳飲みたい~

 

 

 クイズ

 

  記録に残る、人類で最初に

 

  温泉を発見した人は誰でしょうか。

 

 

White Fang 

銭湯が好きな理由はおふろやさんの絵本が好きだったからだけではない。

 

家族でおふろやさんに行くときの平和と安心感とフルーツ牛乳の味を思い出すからだ。

あるいは貧乏しながら充実した奉仕をしていたころの輝いてた自分を思い出すからだ。

はたまた、日の出湯の脱衣所のテレビで見た琴欧洲対朝青龍の一戦を思い出すからだ。

 

人は、よい思い出とセットになっている物事を好きになる。琴欧洲が勝てばなお更だ。

当然、嫌な思い出とセットになっている物事は嫌いになる。

 

そうか。だったら好きな銭湯が廃業しても過度に感傷に浸り続ける必要はないんだ。

 

三吉湯が廃業してマンションが建っても、こどもの頃の平和な思い出は消えない。

鶴ヶ丘湯が廃業して建売住宅が建っても、あの頃ささげた奉仕の価値は消えない。

 

 ヘブライ6:10

神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです。

 

穴掘ったら温泉出てきた!
あー、のぼせた

 

 

答え:ホリ人のアナ

 

(創世記36:20,24)

 

 

なんとホットなギャグセンス!!

 

White Fang 

 

 

思い出を大切にすることと現在の自分を成長させることのバランスを崩すと、思い出にかかわる物事に異様に拘り、執着するようになる。そうすると人としての成長が止まる。

 

道灌湯を存続させるために私財を擲って借金して銭湯ごと買い取ってマンションの建築を阻止してそのために奉仕をおろそかにするのが愚かだということは誰にだってわかる。

開拓の思い出と銭湯がセットだからといって、何もそこまでする必要はない。

 

とはいえ、そこまで極端でなくてもこのパターンで人生のバランスを崩すことはある。

 

自分が「好きなこと」は、本当に純粋にそれが好きなのだろうか。

それとも過去にその物事にかかわるよい思い出があったというだけのことだろうか。

 

もし後者なら、そのよい思い出を反芻してちょっと笑ってみるとよい。2分くらいで。

きっとその2分間でいままで「好きなこと」をする原動力になっていた感情は満足する。

そうして「好きなこと」に大幅にかけていた時間とエネルギーを、もっと有意義なこれからの自分の成長のために使うことができる。

だから、いまでも銭湯は好きだけど、わざわざ行かない。

 

ただ、ときどきこの絵本を開きたくなる。

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2015年

11月

03日

「学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方」

著者:サンキュータツオ

 

国語辞典を男子キャラクター化してそれぞれの特徴と使い方を解説してくれる国語辞典の「選び方」の本。それでも「遊び方」というタイトルからは「国語辞典って読み比べるとこんなに面白いんですよ!」という、著者の辞書オタクぶりがぷんぷん匂ってくる。

 

ひとつの言葉を複数の辞書で読み比べるだけでなく、ひとつの辞書を初版から改訂版ごとに読み比べるなんて、まぁここまできたら確かに遊びの領域。

 

辞書オタの間ですでに有名なネタとしては「新明解・恋愛」で検索。動物園でもいい。

でもゾウさんの方がもーっと好きです(*^_^*)
ペンギンさんが好きです

 

 

 動物園で

 

 動物を見ている人を

 

 観察するのが好きです。

 

 

White Fang 

読み比べが面白いのは理解が深まるからで、読み比べるとなぜ理解が深まるのかは、情報量が増加するからではなく、視点が増加するからだ。あぁ、そんな見方もあったのかと。

 

国語辞典は2冊以上持て!という著者の叫びは確かに正しい。

 

そう考えたら、聖書の理解を深めるためには、いつも新世界訳ばかり読むのではなくて、

たまにはほかの翻訳も試してみるのがいい。例えばこんな感じ。

 

ローマ12:16 

 

 新世界訳

  他の人たちのことを,自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。

  高ぶった事柄を思わず,むしろ,へりくだった事柄を求めなさい。


 フィリップ訳

  上にへつらい下に威張るのではなく、普通の人に真の関心を持ちなさい。

 

 

ペテロ第一2:12 

 

 新世界訳

  諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。


 現代英語訳

  あなたが正しく振る舞っていることが常に他の人たちにわかるようにしなさい。

 

おお、比べて読むとなんだかすごくよくわかったような気がする。



 いつもと違う角度で


 見てみよう



White Fang 

さらに、多言語での読み比べもまたいい。

 

マタイ6:22の「純一」は、英語では "simple" (シンプル)、中国語では「単純」。

どんな目なのか、イメージがはっきりしてきますな。

 

今はJW公式アプリで複数の聖書がカンタンに読み比べ可能。なんと素晴らしい時代。

みなさんも何種類かの聖書が読み比べができるように設定してみてはどうだろう。

 

White Fang は英語新世界訳2013と英語参照資料付きと行間逐語訳と日本語参照資料付きとアメリカ標準訳。集会中に「おぉ、」と唸る回数増えます。まちがいない。

ちなみに、新世界訳は霊感を受けていません(テモテ第二3:16)。

他のどの翻訳の聖書も霊感を受けていません。

 

霊感を受けて書かれたのは原本だけ。だから他の翻訳を読んでもいいんです。

ついでながら、国語辞典を作る側が書いた本としては「辞書の仕事」著者:増田元 

が読みやすくてお勧め。

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2015年

7月

13日

「トラウマにさよならする時」

著者:池田登

 

 

セラピーや心理カウンセリングというものは、自分が平衡のとれた見方ができているかを何度でも確認するために健康なうちからちょくちょく受けるべきものである。

 

ぎりぎりまで自分を追い詰めて、案の定、体の調子を悪くして、自分ひとりではどう仕様もなくなってから最後に行く場所ではない。

 

まして、心の弱いひと、意志が薄弱なひと、ひとりで生きてく強さを持っていないひとが、傷の舐め合いをしに行く湿っぽくて情けない場所なんかでは絶対にない。

 

むしろ、そんなふうに思ってしまう人にこそ特定の種類のトラウマがある。

セラピーを受けた方がよろしい。

 

セラピーを受けたからといって「だめな人間におちぶれる」という訳ではないのだから。


 

 おやじギャグを


 自制できないのも



 一種のトラウマだったりして。



White Fang 


どんな小さなトラウマでも、もちろん大きなトラウマも、それを抱えたままでは、自分の能力を充分に発揮することはできない。正しい自己分析をして、いらないトラウマにさよならして、ほんとうに自分らしい人生を歩むために、みんなにセラピーが必要なのだ。

 

例えば…

 

人間関係につまづく度に引っ越しするひと

放っておけば治るようなことでも、必ず病院に行くひと

集合時間に必ず5分くらいの微妙な遅刻をするひと

なぜか友情が長続きしたことがないひと

肝心な時に自分の意見が言えずにいつも後悔ばかりしているひと

本当は女子らしくしたいのに、なぜか男子のような言動をしてしまうひと(男女逆も)

遊ぶこと、休憩することに罪悪感を感じて、いつも疲れているひと

 

あげればきりがない。

こうした小さな癖や「性格」と思えるものもトラウマによる思考の悪循環から来ている。

そして、こうした癖はセラピーで改善できる。(つまり、性格も変えられる。)

そうすればもっと自分の能力を発揮させ、なりたい自分になることができる。

このトラウマは根深いな。
オオカミの皮をかぶった羊

 

 

 かっこいいクリスチャンに

 

 ならなきゃ生きてる意味ないと

 

 思っているひと

  

White Fang 

本書ではセルフリペアレンティングという手法でトラウマにさよならする方法を解説。

 

セルフというだけあって本を見ながら自分でできるセラピーだが、けっこう難易度高い。

やはり、セラピストに助けてもらいながら実践するのがいちばんいい。

 

そして、セラピストはここにいる。

店のキャッチコピーは変えないけどね。
羊の皮をかぶった羊

 

 

 かっこいいクリスチャンに

 

 無理してなろうとしなくても

 

 いいんだよ。

  

  White Fang 

White Fang は、著者の主催するセラピスト養成講座を受講してこの手法を学んだ。

そう。池田登はWhite Fang の恩師である。(その割には「のぼちゃん」とか呼んでいるが)

 

セルフリペアレンティングのおかげで、White Fang は、黒いシャツで集会に行くのを

すっきりやめた。無知という単語が鞭に聞こえることも無くなったし、牧羊という単語を聞いて戦闘モードに入ることも無くなった。みんなが守っているルールをあからさまに破ってみたくなる衝動も自分でちゃんと抑えられる。効果は身を以て証すことができる。

 

クリスチャンなら、正しく自己分析したところに聖句を当てはめられたら、鬼に金棒。

 

コリント第二 10:4

強固に守り固めたもの(先入観、間違った考え、たぶん、トラウマも)を覆す。

(2010.2.15.P.5)

 

聖書を当てはめた立派な行動がなかなかできない自分を変えたい方、クリスチャンとしてもっと成長したい方、クリスチャン故に受けたトラウマを捨て去ってしまいたい方、

そもそもクリスチャンでいること自体がトラウマ…という方にも是非お勧めしたい。

 

会衆にさよならする前に、まずはトラウマにさよならを。


セルフリペアレンティングをお試しの際に助けが必要なら、どうぞご一報ください。

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2015年

5月

27日

「罪と罰」

著者:手塚治虫

原作:F.ドストエフスキ

 

白状しよう。

White Fang はドストエフスキの『罪と罰』は40ページほどしか読んでない。

本の厚さと登場人物の名前の憶えにくさのみならず、読みながら脳内に投影されるロシアの薄暗い空と寒さに反射的にしもやけができて血流が悪くなったので断念した。

仕方がないので巨匠手塚治虫の力を借りた次第。

 

この作品に関しては、


ロシア文学が漫画で読めるなんて便利!という感謝の声

単なる漫画化ではなく、手塚作品の堂々たる一角 という称賛の声

こんなもので『罪と罰』を読んだ気になられては困る というカタクルシイ声

これだから若者の活字離れが進む というワイドショーで聞いた台詞のコピペみたいな声

 

などなどあるようだ。

 

たしかに、本物を読むに越したことはない。

でも、手軽なきっかけが足がかりになるなら、そこには一定の価値があると言っていい。 

うちの親も最初からこの宗派に入ってればよかったのに

 

 

   

  これがきっかけで

   聖書を読み始めました


 

   White Fang 

『罪と罰』と聖書の共通点は、読むのが大変ということ。

入門書が欲しくなるのは人の性である。そして多くの入門書は漫画を多用している。


White Fang が大昔に親しんだ聖書の子供用入門書『わたしの聖書物語の本』は、絵がかわいくなかった。次に読んだ『偉大な教え手に聞き従う』は、さらにかわいくなかった。

(そのせいかどうかどちらも現在は新装改訂)


その反動から、中学3年頃には「『~物語の本』は、漫画にするべきだ」「アニメも作れ」

と声高に主張したものの、「真のクリスチャンは世のやり方に倣う必要はありません」

とか言われて、しばらくは背教者を見るような目で見られてた。それが今ではこれだ

ちちを尋ね求めて



 あなた方は、固い食物ではなく、

 乳を必要とするような者と

 なっています。


  ー ヘブライ5:14 ー


大人でも、聖書を初めて学ぶときに必要なのは『乳』であって『固い食物』ではない。


まして子どもなら漫画でもアニメでもいいじゃないか。中身が正しければ。


ペテロ第一 2:2

生まれたばかりの幼児のように,み言葉に属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るようにしなさい。


悪いのは漫画でもアニメでもない。そこに余計なものを混ぜることだ。

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2015年

2月

26日

「死ぬ瞬間」

著者:エリザベス・キューブラ・ロス

訳者:鈴木晶 (完全新約改訂版)

 

 

医療・看護・福祉の何れかの勉強をしたことがある人なら聞いたことがあるはずの名前。

わずかな余命を宣告されて死に直面している患者への率直なインタビューをとおして、

死の直前の人々の心の変遷と典型、それに伴う医療・福祉職のあり方を論じている。

 

有名な「死の受容5段階」は以下の通り。

 

①否認:自分が死ぬのはうそではないかと疑う

②怒り:なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲にぶつける

③取引:なんとか死なずに済むようにしようと試みる

④抑鬱:なにもできなくなる

⑤受容:最終的に自分の死を受け入れる

 

もちろんみんながこの段階を追うわけではない・・・ということがちゃんと書いてあるので、この本を批判して、すべての人にこの5段階があてはまるわけではないとかいって何だか分かったようなことを書いている人は、たぶんちゃんと読んでいないのである。

 

「こ、これはわるい夢だ」→ 否認

「他にも魚はいくらでもいるだろ」→ 怒り

「あ、見てそこ、UFO !」→ 取引

「気力も尽きた。まな板の上の鯉」→ 抑鬱

「煮てよし、焼いてよし、でもタタキはイヤ」→ 受容

 

White Fang 

実際、筆者自身も死にゆく人の心を精神科医として研究するところからスタートしたものの、いつしか科学的見地を離れ、霊能者とタッグを組んで死後の世界にどっぷりはまる。ということは彼女自身は最初の段階である「否認」から抜け出せなかったのだ。

ほんとは死後の世界を信じていたのではなくて、ただ死ぬのが怖かったんだろう。

 

・・・ま、それはいいとして、クリスチャンはこの5段階を踏むべきだろうか。否である。

 

イエスには「怒り」と「抑鬱」の段階はなかったし(マルコ10:45)

ヒゼキヤなんか最初っからいきなり「取引」してる(列王記第二20:1-3)。

そもそも、一時的な感情としての「否認」はあったとしても、根本的な意味での「否認」はだれにとってもあり得ない。

 

伝道の書9:5

生きている者は自分が死ぬことを知っている。



 死んだのではない、


 眠っているのです。


 ルカ 8:52



聖書を学ぶと、結局人は皆わずかな余命を宣告されて死に直面している状態だとわかる。

(創世記2:17, 詩編90:10を読む

 

そして、死という敵にはだれも勝てないということもわかってくる。

なので、クリスチャンなら、最初から「受容」の段階である。


この種の「受容」が理解できないクリスチャンは、信仰を「取引」と勘違いする。

あるいは、その人の「怒り」は信仰でコーティングされて、とてもクリスチャンとは思えないような頓珍漢な願いを祈るようになる。

 

最初から「受容」の段階で普段生きているクリスチャンが医師からわずかな余命を宣告された場合、踏むべき段階はおそらく次の3つである。




踏むべきでない階段。



White Fang 

① 信仰:今まで自分が示した神への愛と信仰を神は忘れないという確信。

② 希望:自分が死のうがなんだろうが、神のご意志は必ず成されるという将来の確実性。

     そして、ご意志が成された時には死がなくなるので自分は復活するという保証。

③ 愛 :ここで死んだら、「死なない」と欺いた蛇がほんとにうそつきだったってことが

     証明できるぞ。神の役に立って死ねるんならま、いっか。という喜び。


コリント第一13:13

しかし今,信仰,希望,愛これら三つは残ります。しかしこのうち最大のものは愛です。


 

 彼女がいなければ、

 この作品も、

 

 もしかしたら

 " 聖書カバーのWhite Fang " も

 

 生まれなかったのかもしれない。

 

White Fang 

White Fang の人気商品、「ドルカス」誕生のきっかけとなった昭和2年生まれの愛すべき姉妹が2014年末に亡くなった。彼女の生き方は亡くなる数年前から既に「受容」だった。

その証拠にこんな会話を小耳にはさんだことがある。

 

「わたし今月で50歳になったんだけど、この年になるとようやく世の中のことがわかるようになって、改めて、80年も生きてる姉妹のこと尊敬します。」

 

「まぁ。そうですか。姉妹も頑張って生きてきたんですねぇ。

 でも、これからもっといろんなことがわかるようになりますよ。」

 

・・・深い。

いったいぜんたい、どんなすごいことがわかっちゃったのか、多くは語らなかったが。

 

いずれにしろ、彼女が数十年間み名のために示した愛が忘れ去られることはない。

ご意志が成されたそのときには、その喜びをいっしょに味わおう。

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2014年

11月

01日

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」

著者:リチャード・P・ファインマン 訳者:大貫昌子


 

満載のいたずらごころを標準装備した平均よりだいぶ優秀な脳ミソを持ち合わせて生まれてきた人物が、好奇心を満し疑問を解決するためなら人がどう思おうとちっとも構わないという価値観を獲得したらどんな人生になるか。

 

持ち前の良くできた頭脳をフル活用したお茶目ないたずらがお茶目じゃ済まなくなったり、好奇心を満足させるためにひたすら突っ走る姿勢がひょんなところで役に立ったり、お役所仕事や制服・身分・階級の無意味さや手段の目的化や中身が無くても形式を重んじるしきたりのあほらしさを心底憂えてあくまで抵抗する態度が生み出したハプニング…

 

ノーベル賞受賞者の半生記というよりも、「好奇心いっぱいの人間」の自伝的エッセイ。


教科書みたいな真面目な伝記ではなくて、「偉人とんでもエピソード集」的な軽い読み物という仕上りになっているところが本人の性格とエピソードの内容にぴったり合ってる。ついつい何度も読んでしまう、大変愛嬌ある一冊。でも学べることはとても多い。

 

ハンコ無いので肉球でいいですか?
まぁそう言わず…ハンコ押すだけでいいんですから




お役所なんぞくそくらえだ



R.P.ファインマン

ファインマン氏がブラジルで教えた学生たちは教科書の記述を暗記してテストで高得点をとっても、それが実際には何なのかは全く理解していなかったのだそうだ。

 

例えば、

「摩擦ルミネッセンスとは何か」

「結晶体をつぶした時に出る光のことです。」

「では摩擦ルミネッセンスが観察できる身近な物質をひとつ挙げてごらん」

「・・・・・・(しーん)」

といった感じだったらしい。すべてが。

 

暗記してテストに通るだけの勉強にいったい何の意味があるのか、そんなものが科学か!

 

へい。お怒りごもっともです。




 体を張って実験するのが


 真の科学者ってもんです。



White Fang 

テストや課題の提出そのものが第一義という日本の教育制度に慣れ親しんで育った私達も学ぶ内容が科学から聖書になっても同じ落とし穴にはまってしまう事がある。

 

知りたいから学ぶのではなく、テストのために覚える。感想文を書くために本を読む…。

 

目立った点で注解するために今週の聖書通読範囲を読む、「近づきなさい」の黙想のための質問は、予習して質問の答えをそれらしく注解できるけど、黙想はしてない…。

 

「幼い子どもは,初めは答えをただ読むだけかもしれませんが,やがては自分の言葉で考えを表現できます」(塔2006.11.1.P.30-12)

という内容をただ読むだけの注解をしたのは幼い子どもではない。大卒の25歳だった。

注解の回数を増やせという助言が与えられた次週に生じた惨事であったと記憶している。

落ち穂拾いに来るぐらいなら一緒に働けばいいのよ
落ち穂拾いに来るぐらいなら一緒に働けばいいのよ

 

 落ち穂を落とさないように

 

 きっちり収穫するのは

 

 罪になりますか?


  (レビ記19:9) 

 

White Fang 

とはいえ、手段が目的化して本末転倒状態でも、結果的にそれが役に立つこともある。

 

こころからじゅうぶん奉仕するための取り決めが、会衆内で競争心と見栄の張り合いを助長しているとしても、そこから何か良い良い結果が生まれてくると信じたい。

 

時間を入れるために留守だとわかってる家の玄関に立ってピンポンする人が何千人もいればそのうちきっと何かが成し遂げられるはず。だからもう批判はやめよう。

 

パウロだってこう言ってる。

 

フィリピ1:15-18

 確かにそねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますがほかの者たちは善意によってそうしています。 後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。 

しかし前者は闘争心からそうしているのであって純粋な動機によるのではありません。 

ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。

そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです。

 

ちょっとくらい目的をはき違えても許してあげようじゃないか。

 

でも、自分はブログを更新するために本を読んだんじゃないとアピールするためにも、

学んだことが実際にはどんなことなのか、White Fang 自らやってみた。↓

水晶をこすり合わせて得られる非発熱性発光現象の確認。0:16から画面が暗くなります。

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2014年

8月

10日

「あたらしいみかんのむきかた」

著者:岡田好弘

 

 

究極のひとりあそび、ヒマつぶしの極意、無駄な努力、平和すぎてすることがない…

 

どんな言葉でこの本の存在を表そうかと考えてはみたものの、原点に返ってシンプルに「ユーモアぎっしりの一冊」としておこう。

 

みかんの皮を動物の形にむくという何とも健全な娯楽が、主人公むきおくんのナンセンスなストーリーに乗せて丁寧な図解で紹介されていく。

 

こういう無駄なテクニックはぜひ身に着けなければならない。

 

 ユーモアは

 

 最も美しい

 

 愛の表現である。

 

 

  アルフォンス・デーケン

その場に共にいる人のために、喜ばしい温かな雰囲気を作りたいという純粋で美しい愛を表す方法、それがユーモアである。

 

逆に言えばユーモアを発揮すれば愛を伝えることができる。

 

…ってことは、みかんの皮を動物の形にむいて愛を伝えることもできる。

 

みんなで誰かの家に集まって食事をする機会があるとする。そのメンバーの中にちょっと気になる人がいるなら、あなたが持参するべきものはもう間違いなくみかん。トークが苦手なふりをしながらひっそり兎の形にみかんの皮をむいて迷わず気になる人に渡すべし。その場の雰囲気を楽しくさせるリアクションが得られたなら愛も受け入れられると期待してよろしい。(ほんとかよ)

うさぎ
うさぎ


実際に 

やってみた


White Fang 

はと
はと
きんぎょ
きんぎょ

ま、とにかく人気者になりたかったら今年の冬はみかんの皮をむくに限る。

今から練習積んでおけば冬にはまにあうでしょう。

 

フィリピ4:8

何であれ愛情をさそうことがあれば、そうしたことを考え続けなさい。

 

あたらしいみかんのむきかたをしっかり練習して、ユーモアで愛情を伝えよう。

 

未完のままじゃ何にもならない。ひと皮むけた自分を見せつけろ。

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2014年

5月

06日

「根っからの文系のためのシンプル数学的発想術」

筆者:永野裕之

 

実生活にあてはめて得するために、ちょっと難しめの数式を使う方法が書いてある本…

ではなく、自分は文系だから計算できない…と思っている人向けに、実は普段してるこの考え方って数学的なんですよ、だから数学なんて怖くないですよという、文系人間のために新たな扉を開く何とも親切な一冊。

 

文系で計算が苦手な人でも、この本を一通り読んでから、米ドラマ numbers ~天才数学者の事件ファイル~ を観ると、ちょっと理解が深まって面白さ1.5倍増。

…いや、1.2倍くらいかな。…計算は苦手なんで…。

 

いろんな論法を解説している中で興味深かったのは、背理法。

 

 鳥の数を数えるのも

 数学的発想法

 

 ほんとに全部数えてるのは…

 

(マタイ10:29)

 

  White Fang

背理法というのは、『ぼくは犯人じゃありません、アリバイがあります』というやつ。

 

いま立てている仮説を直接証明できないときに、逆の仮説を立ててそれを否定する方法。逆の仮説が否定されれば、元の仮説は正しい。

 

①元の仮説:自分は犯人ではない (でも、それを直接証明することはできない。)

②逆の仮説:自分が犯人である

③そうであれば、防犯カメラに犯人が写っている時間に別の場所にいることはできない。

④ぼくはその時間に会社にいて仕事をしていました。

⑤だから、自分が犯人であるという仮説は成立しないので、ぼくは犯人じゃありません。

 

おお、なんとシンプルで強力な論理なんだ。

これなら、状況証拠しかないように思える場合でも、正しい仮説を立てて背理法を使えば筋道立てて考えることができるってわけだ。

 

 

 真実はいつもひとつだワン!

 

  White Fang

この方法で神の存在について考えてみよう。

 

①元の仮説:創造神は、いる (でも、見えないし直接証明できない)

②逆の仮説:創造神は、いない

③そうであれば、生命も宇宙空間も物質も偶発的に発生したことになる。

④科学的には、すべて偶然で今の状態になる確率は…ゼロに近い。

⑤だから、創造神は、いないという仮説はゼロに近い確率で成立しないから、創造神は、いると考える方が論理的。

 

おお、これは簡単だ。神の存在は証明できないという人に伝道で出会ったら、

「背理法じゃダメなんですか?」って聞いてみよう。

 

 

 「見ればわかる」

  ってことですな

 

 

 (ローマ1:20)

 

  White Fang

同じ論法で反論されたらどうしよう。

 

①元の仮説:神はいない

②逆の仮説:神はいる

③-1 そうであれば、神についてなかなか知ることができないのはおかしい。

 -2 そうであれば、格差のない公正な住みやすい世の中になるはずだ。

 -3 そうであれば、人が(特に、神を一生懸命信じている人が)死ぬのはおかしい。

 -4 そうであれば、地球はもっともっと美しい場所であるはずだ

 -5 そうであれば、神が人間をもっと世話してくれていいはずだ。

 -6 そうであれば、絶対幸福になれる黄金律があるはずだ。

④新聞読めば③-1~6の否定は簡単でしょ。

⑤だから、神はいるという仮説は普通に生きているだけでも成立しないってわかるから、神はいない。

 

うわ、この反論、全然怖くないぞ。

 

  収穫は大きいですが、

  働き人は少ないのです。

   マタイ9:37

 

 

 少なすぎるんじゃないか…

 

  White Fang

①元の仮説:神はいない

②逆の仮説:神はいる

③-1 そうであれば、神についてなかなか知ることができないのはおかしい。

  「え、わたし丁度いいテキスト持ってるんですけど。

  『聖書は実際に何を教えていますか』の本のp.8 ご覧ください。」

 

 -2 そうであれば、格差のない公正な住みやすい世の中になるはずだ。

  「では、先週ご紹介した本の p.106 からご紹介します。」

 

 -3 そうであれば、人が(特に、神を一生懸命信じている人が)死ぬのはおかしい。

  「今回は『教え』の本の6章です。」

 

 -4 そうであれば、地球はもっともっと美しい場所であるはずだ

  「3章開いてみましょう。」

 

 -5 そうであれば、神が人間をもっと世話してくれていいはずだ。

  「神がしてくださったことについて、5章から。」

 

 -6 そうであれば、絶対幸福になれる黄金律があるはずだ。

  「『教え』の本の14章は助けになります。」

 

④聖書を読めば③-1~6の否定はできなくなります。

⑤だから、神はいるという仮説が否定しにくくなった今あなたはどのように考えますか。

「いい質問ですね」ってのは上から目線だよな

 

 真理はいつもシンプル。

 真理に従いたくない人が

 物事をわざと複雑にしてるだけ。

 

 

  White Fang

報告が出せるのは、③-3の段階か、③-2の段階で次回の訪問の約束ができた場合。

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2014年

1月

22日

「この「聞く技術」で道は開ける」

副題:一番いい考えを引き出すノウハウ

著者:ナンシー・クライン 訳者:古賀祥子

 

 

この本を紹介するためにブログを始めたといっても過言ではない、White Fang 一押しのおすすめの絶賛の必読本、満を持しての登場。

 

この一冊さえ読めば、他のコミュニケーション方法のハウツー本や、コミュニケーション能力関係の自己啓発本は、たぶん一生読まなくていい。これさえ繰り返し読めばいい。

 

この本のおかげで、ヤコブ1:19 の理解はぐっと深まる。

 

ヤコブ1:19

わたしの愛する兄弟たち,このことを知っておきなさい。

すべての人は,聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅くあるべきです。

 

はなもあるよ~
はなもあるよ~

 


  耳のあるものがいるなら、

 

  聞きなさい。

 

 

   啓示 13:9

 

 

ヤコブ1:19 をコミュニケーションに適用して、

 

① まず相手の話を聞く

② 次に自分が話す番

③ 会話のマナーとして、怒ったりしないように

 

・・・といった具合にのほほんと解釈しても構わないかもしれない。

 

だが聖句によると相手の話が一段落したら次にするべきは「語ることに遅く」すること。

 

つまり、さらに聞くということ。

 

そのうち、相手の話の間違いに気づたり情報が古いと思ったりすると、それがどんなに些細な事でも、本題に無関係でも、話をさえぎって訂正してやりたいという誘惑に駆られる。また、相手が今から言う内容が予測できるときには、話す権利を横取りして、先回りして内容を言いたくなってしまう。

 

間違っている話や古い情報に基づく話は聞きたくない、あるいは、そんな話はもう知っているので聞いても時間の無駄だと思うからだ。

 

そうした感情は一種の「憤り」と言ってもいいだろう。

 

しかし、「今度こそ自分の出番が来た」と思って話したり情報を相手に与えたりしたくなる誘惑に決して負けてはいけない。

 

せっかく「語ることに遅く」したのだから今度は、「憤ることに遅く」なって、話したいという衝動を押さえる方が賢明で効果的。

 

つまり、もっと聞くということ。

 

 

 

 

 

  オレにも

 

  ひとこと言わせろ!

 

 

   White Fang

この、①まず聞く、②さらに聞く、③もっと聞く を実践するために必要な事柄の一つに

「ゆとりのある態度」が挙げられている。

 

聞き手の態度にゆとりがあれば話し手は十分に考え、語り尽くすことができる。

これも聖書の言葉の通りだ。

 

詩編119:32

わたしはあなたのおきての道を走ります。
あなたがわたしの心に余裕を持たせてくださるからです。

 

聖書の助言を当てはめる人には、神から与えられる真の余裕がある。

そんな人が聖書の助言を当てはめて人の話を聞くなら穏やかな余裕のある態度でじっくりと聞くことができる。

 

そんな、人の話を決して遮らないクリスチャンになりたい。

 

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2013年

12月

07日

「偶然からモノを見つけ出す能力」

筆者:澤泉重一

副題:セレンディピティの活かし方

 

ある探し物をしているときに全く別の良いものを発見して喜ぶことがある。

そんな、偶然の中から素晴らしいものを発見できる能力をセレンディピティという。

 

例えば、

 

聖書の講話を扱うための準備をしていろいろな資料を調べているとする。

その講話とは全く別の、とある地域の文化や人々を紹介する資料に偶然目がとまり、なぜか気が向いてざっと読んだ。

別の日の伝道で、玄関のベルを鳴らそうとしてふと気が付くと、その記事で紹介されていた珍しい布がカーテンに使われているのが見える。

その家の人とその地域の文化のことで会話が弾んでいる間に、その人の興味のある事柄が今度自分が扱う聖書の講話の内容に近いことに気づく。

講話の準備のために資料を調べたときに覚えていた、その人にピッタリの聖書の言葉を紹介するよい会話ができた。

 

…といった感じで、偶然の発見から素晴しい結果を得る、そんな能力のこと。

会津只見線です
会津只見線です

 

 なんか今、

 大河ドラマから

 聖書みたいなセリフが

 聞こえてきたのは

 単なる偶然だろうか

 

    White Fang

この本を読んだ上で、White Fang 独自のセレンディピティの活かし方を一言で言えば、

 

自己満足に陥らないでさまざまな情報を素直に取り入れること。

 

 そういえば、JIN でも

 

 コリント第一10:13

 

 みたいなこと言ってたな

 

  White Fang

筆者はそこそこ立派な経歴の持ち主である。

コンビニのお弁当に例えれば、「せいろで蒸した包みおこわ幕の内」くらい立派である。

White Fang はまぁ、せいぜいおにぎりの「焼きチーズカレー 辛口」程度だ。

 

そんな筆者も、自慢話にならないように上手な文章を書く方法や、情報は豊富でも自分の知識量をひけらかすのではない仕方で内容を伝えるコミュニケーション能力などに対してはセレンディピティは働かなかったようで…

 

本を開けば、居酒屋で好きでもない上司から面白くも無く為にもならない自慢話を聞かされている雰囲気でセレンディピティにまつわるありがたいお話が書き連ねられる。

読後はまるで、上司抜きで呑み直さなきゃやってらんねぇぐらいの気分である。

 

おそらく、自分は誰にもアドバイスされなくても本ぐらい書けるという自信を持っていらっしゃるのだろう。

 

 最近、ドラマのセリフで

 聖書の言葉が使われてるって

 ご存知でしたか?

 

 …なんて伝道で使えませんかね。

 

  White Fang

自己満足に陥らないで様々な情報を素直に取り入れる謙虚さがあれば、記憶力だの受けた教育のレベルだのにかかわりなく、いつのまにかセレンディピティは働く。

 

ペテロ第一3:15

だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい。

 

謙虚な気持ちで情報を取り入れている人が伝道に出かければ、本人の固有の能力にかかわりなく、いつのまにかセレンディピティは働く。

 

自分にはセレンディピティなんて能力は無いなぁと思ってがっかりする必要はない。

 

マルコ13:11

何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること,

それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく,聖霊が話しているのです。

 

もしかしたら、クリスチャンにとってのセレンディピティは、聖霊なのかもしれない。

 

ただし、伝道の途中で休憩に入ったコンビニで「焼きチーズカレーおにぎり辛口」を偶然見つけたとしても、決して自分に聖霊が働いているとは期待しないように。

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2013年

7月

30日

「「空気」と「世間」」

筆者:鴻上尚史

 

空気が読めない…

読めたけどうまく対応できない…

…っていうか空気って何?

 

そんな現代人のための「空気分析」。アカデミックなテイストをスパイシーに効かせつつも「あるある」感覚で読める読みやすい一冊。

 

一言で言えば、少し昔に成り立っていた「世間」という一定のパターンが現代風にちょっとずつ崩れているのが「空気」。空気をよめるような人になりたければ、昔の「世間」のパターンと比べてどこが崩れているのかがわかればよろしい。

 

 

 

  イザヤ40:30,31

 

  空気を読むから

 

  羽ばたかなくても飛べる

 

 

      White Fang

この、空気を読む力をアノミー・リテラシーと呼ぶことにする。

White Fang の造語だ。ぜひ流行らせていただきたい。

 

昔の社会には分かり易い決まった枠組みがあった。それが人口増、分業、価値観の変化、宗教の権威の失墜などによって社会の枠組みや規範が緩んで混乱してしまう。

これをアノミーという。リテラシーは、大雑把に言えば読解力のこと。

このアノミーが身近な人間関係でどのように発生しているかわかれば、空気が読める。

 

でも、クリスチャンなら、それだけでは満足しないはずだ。

 

規範が緩んで混乱しているのが空気だとしたら、そこにどんな規範が必要なのか、聖書のどんな基準がいま目の前のアノミーに必要なのかがわかり、それを適用して行動できる。それが、クリスチャンに必要なアノミー・リテラシーである。

 

コロサイ4:5,6

つねに知恵をもって歩み,(中略) 一人一人にどのように答えるべきかが分かるようになりなさい。

 

でも結局、人と接するときはいつでもアノミー・リテラシーが必要だから、実のところ、聖書の原則のどれが当てはまるか考えていつも通り行動するだけで、クリスチャンであるわたしたちは上手に空気が読めるのである。

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2013年

6月

30日

「マー先のバカ」

著者:杉本治

 

急いでなくても全力疾走するのが子供。

慌てていても全力では走らないのが大人。

最初から、慌てなくていいように自分のことや周囲の環境をマネジメントして、いつでも落ち着いて行動、判断できるのが本物の大人。

 

White Fang は大人と子供の違いをこのように考察している。

 

だが、筆者は小学校3年生で全力疾走をやめてしまったそうだ。

そして、小学校5年生のとき飛び降り自殺した。この本は日記を中心に、彼の書き遺した作品を一冊にまとめたもの。山田かまちにも似た繊細な芸術性が溢れている。

 

 わたしはその人を

 

 復活させます。

 

 

  新世界訳聖書

     ヨハネ6:40

 

「自分」というものは、周囲の期待に応えようとするところから発達するらしい。

 

周囲は自分にどんな役割を果すように期待しているのだろうかと考え、その役割を引受けて行動する。

どんな役割が期待されているかわかっていても、その役割の通りに行動したくないと思うこともある。

それを繰り返して「自分」はできていく。

 

類稀な強い感受性を持った小学5年生に対して、もしも誰かが不自然で過剰な役割期待をかけたのだとしたら。

その期待通りに行動したくないと思ったとき、それほど成熟していない「自分」は、役割を放棄する方法として死以外の選択肢を見つけられなかったのだとしたら。

 

悲劇としか言いようがない。

 

誰がどんな期待をかけたのか。いずれにしろ彼が感じた期待は、つまらなくて、あほらしくて、ばかばかしくて、無意味で、ナンセンスで、面白くもなんともなくて、そんなことを期待する人たちでこの社会は出来上がっているんだということに彼は絶望しただろう。

 

 

 

  有害な者は

  曲がった話し方をして

  歩いている。

 

   新世界訳聖書

     箴言6:12

 

残念だが、同じ現象はクリスチャン会衆でもおきる危険性がある。

 

わたしたちは不完全なので、クリスチャンの仲間に間違った役割を期待することがある。

わたしたちは不完全なので、クリスチャンの仲間からの期待された役割をどこまで演じて応えればよいか、その判断を誤ることがある。

 

あるいは、

「あの二人はどうも気が合うみたいだから結婚したらいいのに」とか、

「今回の研究記事ちょっと難しいけど、きっとあの姉妹が調べて注解してくれるから自分は予習しなくていっか」などなど、時には期待すること自体が間違っていることもある。

 

はたまた、

「みんなはぼくのこと『あの兄弟は50時間は無理でも30時間ならできる』って思ってるんだろうな」と考えて、あまり純粋ではない動機で補助を申込んだり。

 

挙句の果てに、

インタビューに呼ばれて「わたしには50時間は無理でしたが、30時間で補助の喜びを味わうことができました。この憐み深い取決めに本当に感謝しています。」だなんて、みんなの期待通りのセリフを言ったりして。

 

期待に応えるだけの人生はつまらない。

もしもその期待が誤ったものなら、それに応えるために生きるのはとてつもなくつらい。

 

 

 「カメラだぞ。熊みたいにしろ」

 「いつも通りじゃだめなの?」

 「鮭銜えてくるの忘れた~」

 

  White Fang

  

期待に応えようとして本当は引受けたくなかった役割を演じ続けている間にいつのまにかでき上がってしまった『自分』は、聖書の原則に従ってとっとと捨て去ろう。

そうして、神から期待された役割を果たすことに専念しよう。

 

エフェソス4:22-24

古い人格を捨て去(り),あなた方の思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着け(なさい)。

 

他の人に間違った期待をかけて、いつの間にか人格形成を侵害しないよう気を付けよう。

そうして、神がその人に期待しているのと同じことを期待できる善良な人になろう。

 

10歳で小説を書く小学生の文章能力をフル活用しても「バカ」としか表現できないような人物だと思われてしまう過ちは誰だって犯したくて犯すものではない。

 

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2013年

5月

30日

「X電車で行こう」

筆者:山野浩一

 

表題作は趣味炸裂。すばらしいSF小説だとは思わないが、この筆者はすばらしいと思わせる魅力を持っている短編SF小説集。

 

好きなことだけやる人はあまり尊敬されないが、好きなことばかりやっていてそれなりに究めるとある程度尊敬される。それなりに究めたことを本に書けたら上等だ。

たとえ小説の途中で何ページも駅名の羅列が続いたとしても、それが書けるというだけで十分賞賛に値する。

 

では、新世界訳聖書とその周辺の出版物ばかり読んでいる人はどうだろうか。

それなりに究めただろうか、尊敬を得られるほどに。

 

「鉄男」が駅名を覚えるように、聖書中のいろいろなことを覚えているだろうか。

 

「鉄男」が路線図を眺めて空想で何時間も旅行するように、聖書から学んだことをあれこれ関連付けて黙想しているだろうか。

 

 

 欧陽脩 馬上、枕上、厠上

 いいアイディアがひらめく場所

 

   ニュートンもほんとは

   厠上で引力の法則を…

 

   White Fang

 

効果的な黙想が始まるきっかけは、以前に学んだこととの関連から疑問を抱くことだ。

 

例えば、目の見えない人がだんだん見えるように癒しの奇跡を行ったのはイエスの優しい気遣いだ(マルコ8:22-25)という割には、恥ずかしい病気を何年も患ってドクハラにも遭っていた女性が、イエスの奇跡的な力にこっそり触れてこっそり治ってこっそり帰りたいと思っていたのにわざわざ公衆の面前に呼び出す(マルコ5:25-34)のは、これっぽっちもオンナゴコロ解ってないしデリカシないしイエスらしい優しい気遣いはどこへ行ってしまったんだ?…といった感じで。

 

 

 群衆があなたを取り囲んで,

 押し寄せて来るのです。

        -ルカ8:45-

 

 展示物には触れないでください。

 

 White Fang

 

 

疑問まで思いつかなくても似ているいろいろなものを思い出すと思考が刺激される。

 

聖書に限らず、映画やドラマを見ているときに「あ、このストーリーはシェイクスピアの○○だな」などといろいろ思い出せるように訓練すれば、いつの間にか聖書から学んだことも黙想できるようになる。

 

その勢いで「X電車で行こう」を読むと落語の「黄金餅」を思い出す。

黙想しても何も得られないとは思うけど。

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2013年

5月

17日

「イワンのばか・三人の隠者」

著者:レフ・ニコラエビッチ・トルストイ

 

トルストイ晩年の民話形式の著述には時折聖書の言葉が含められている。

それぞれの聖句の意味をきちんと黙想するのに役立つ材料になる、新世界訳聖書読者なら必読の作品が勢揃い。

 

学んだことを当てはめるとき、自分が今まで持っていたあまり正しくはない考え方に沿ってあてはめてしまって結局少しも成長できないことがある。

 

例えば、ルカ18:9-14 の収税人とパリサイ人の祈りのお話。

 

ルカ18:11

パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。

 

 

 

 「なんでオレが汚れた動物なんだよ」

 

 

 「…態度が悪いから」

 

 

  White Fang

         (レビ記11:17)

この話の教訓は何だろうか。「自分を高めるのはよくない」とか、「自分を人と比べるのはよくない」という意味だけでは不十分だ。

 

「このパリサイ人はよくない。わたしはこのパリサイ人のようにならないように気を付けて、人と比べないようにしよう。」と考えると、いつのまにか、聖書を正しくあてはめられていないパリサイ人と自分を比べて自分を高めることになる。

それは結局、『神よ、わたしは、自分がこのパリサイ人のようでないことを感謝します』ということになり、このお話の教訓は得られていない。

 

パリサイ人と収税人の祈りのお話の教訓は、

神の前で自分だけをきちんと見つめる必要があるということ。

 

自分は何らかの特権を与えられているから、その特権を受けていない人よりもよい奉仕ができているとか、自分より辛い状況にある人と比べたら自分はもっと頑張らなきゃいけないとか、そういう考え方はクリスチャンの思考回路ではない。

ただ単に、自分自身を見つめればいい。

 

 

  三人の隠者

 

 

   White Fang

「三人の隠者」を読むと反省させられる。

無意識のうちについついこのお話と同じ過ちを伝道でしてしまうことは多い。

 

自分が聖書を伝える相手をどうみなすか、自分の観点を見直す良い教訓が得られる。

 

伝道に出かける前に読んで、さわやかな平衡のとれた態度で人々に真理を伝えよう。

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2013年

4月

29日

「職員室の心の病」

著者:大原健士郎

 

著者の大原先生は2010年に79歳で亡くなった。惜しい人を亡くしたものである。

 

何しろ名前がいい。健士郎ですよ、ケンシロウ。

診察室に入った途端に、「お前はもう病んでいる」とか言ったりして。

 

…ま、それはないにしても、大原先生の本は気の弱い人にとっては結構辛口。

 

 

  おれの子なら

 

  這い上がってこい

 

 

  White Fang

「神経症は…(中略)…要するに性格が素直でないのである。」 とか、

「この種のうつ病は…頭の固い人が多い。」 とか、

 

本質をビシッと言い過ぎているくらいの書きっぷりで何とも痛快だが毒舌ではない。

 

「大人たちは、自殺をする子はかわいそうな子で、シンナーを吸う子は憎ったらしい子だと決めてかかっている。どちらも、社会からはみ出したかわいそうな子なのである。」

 

というように、何でもかんでもぶった斬っているわけではない。どの文章にも大原先生の愛情と人間味が感じられる。

 

 

  友が打つのは

 

  善意による

 

 

  ー 箴言27:6

       改訂英訳聖書 ー

善意で打たれたとき、立ちあがれなくなるほど打たれることはない。

羊飼いが羊を正しい方向へ導くために杖で羊をそっとつつくのと同じだ。

 

詩編23:4

あなたのむち棒と杖は,わたしを慰めてくれるものなのです。

 

大原先生が「善意で打つ」なら、ときどき先生の本を読んで打たれてみるのもいい。

正しい方向に気持ち良く進めるようになるはずだ。  

 

そして、ケンシロウはこう言う。

 

「安心しろ、秘孔は外してある。」

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2013年

3月

20日

「死ぬときに後悔すること25」

著者:大津秀一

 

 

著者がこれまで出会った終末期の患者の「後悔」のうち、多かったものを25例紹介。

後悔しない人生を歩むためのヒントとなる本。

 

…ということになってはいるのだが、果たしてこの本に書かれていることを実行したら、本当に後悔することなく死ねるのだろうか。

 

おいしいものを食べておき、行きたいところに旅行に行き、悪事に手を染めることなく、毎年人間ドックにかかり、遺産や葬式のことをきちんと決めておき、子どもを育てあげ、趣味を思う存分楽しみ、夢をかなえて、愛する人に「ありがとう」ときちんと言ったら「じゃあ、これで」って死ねるんだろうか。

 

これだけのことをしたからもう死んでもいいというのは、どうせこれ以上のことは80年や90年ではできっこないという単なるあきらめの境地で、後悔しない人生というのはそのあきらめの境地に達する道のりというだけのことではないのだろうか。

 

  いつだって

  最高にカワイイ服を着るの。

 

  だって、みんなと同じにしてるだけで

  人生が終わっちゃうなんて

  サイアクじゃない?

 

  Paris Hilton

 

 

  White Fang かなり意訳

死ぬときに後悔する理由は、まさか自分が死ぬとは思っていなかったからで、それゆえに自分の死に対して準備不足だったからだ。

 

両足を失った人が手術後もまだ普通に歩けるような気がするのと同じように、永遠に生きるように造られていたアダムとエバの子孫である人間には、永遠に生きられるような気がする感覚がまだ残っている。だからだれでも自分は生きられると思って生きている。

 

つまり、死はあくまで人間にとって想定外のこと。

 

聖書は、死ぬときに後悔しないためのあきらめの境地に達する道のりの歩き方ではなく、永遠に生きられる道のりの歩き方を教えている。

 

イザヤ65:17-19

いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない。しかし,あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,それを喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない。

  

死ななければ何も後悔しない。

 

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2013年

2月

19日

「画家のおもちゃ箱」

著者:猪熊弦一郎

 

さすがにセンスのある人は違うな、とページをめくるたびに感心させられる、現在は絶版の貴重な一冊。

 

家やアトリエに飾られているコレクションの数々を収めた写真集だが、どれをとっても、「たいせつにしたい」と思わせる品物ばかり。同時に、著者がもっている「物をたいせつにする気持ち」がじんわり伝わってくる。

 

きっと彼は自分のテリトリーのことをこの本で「おもちゃ箱」と言っているのだろう。

自分を愛し慰め楽しませて一緒にいてくれるたいせつなものをたいせつにする場所。

それがおもちゃ箱。

 

 

 

 

   箴言12:10

 

 

   町はおもちゃでいっぱいだ

 

   White Fang

そう思ってみると世界はおもちゃ箱だ。

 

すべてのものは自分のために存在しているおもちゃ。住んでいるところは、はたらくくるまもケーキやさんも海も動物園もあるおもちゃのまち。そう考えるとわくわくしてくる。こんなすごいおもちゃ箱で遊ばなきゃ損だ。

 

そうだ、あしたの朝もおもちゃの兵隊さんたちが八王子駅の通勤電車で無言で椅子取りゲームをしているところを眺めて遊ぼう。少しえらいおもちゃの兵隊さんたちが二番線から中央ライナー号にえらそうに乗るところを眺めて遊ぼう。リタイヤしたおもちゃの兵隊さんたちが登山に行けるように高尾山まで電車を走らせてあげよう。

 

White Fang のおもちゃ箱、そんなにセンス良くないな。

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2013年

1月

22日

「佐賀のがばいばあちゃん」

筆者:島田洋七

 

本を多く読むことの益の一つに、識別力が身に付くということがある。

識別力とは、物事の違いを見分ける知的な能力のことだ。

 

ただし、良い本をたくさん読まなければならない。本物をよく知っていればいる程、すぐに偽物を見分けられるからだ。

 

識別力を働かせれば、この本が自伝小説ではないことはすぐに分かる。

 

では書いてあることは皆ウソなのだろうか。

 

 

 

    寝たかな?

 

  

    White Fang

図書館ではこの本を 779 に分類している。

ここには他にどんな本が分類されているかというと、

 

ヒロシです。2

こんな女房に誰がした?:きみまろ人生劇場

座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生

ギャル曽根の大食いHAPPY道

 

…という分類ですよ。(タイトルのみ紹介。筆者名は伏せさせていただきます。)

 

識別力だけだと生きてくのが嫌になりますな。自分の周りにいる人がみんなうそつきに見えてきていろんなことにがっかりしてしまう。

 

だから神はソロモンに知識と理解力だけじゃなく、もう一つ大切なものを与えたんだな。(列王記第一4:29 を読む)

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2012年

12月

23日

「大人のしくみ - 十代のための哲学」

著者:ビル・バーナード 訳者:曽根原美保

 

「哲学」とは言っても、

知を愛するという大義名分のもとに

 

「亀に追いつくことはできない」だの、

「飛んでる矢は飛ばない」だの、

「正確な三角形は存在しないが不滅の魂が完全であるゆえに正確な三角形を知っているので我々は三角形を認識できる」だの、

「我思う」だの、

「神は死んだ」……

 

だのといった類の、昔の理屈っぽい暇人が時間をつぶすために考えたなぞなぞに付き合っているだけのことでほんとはただ時間を無駄にしている以上のことは何もないのになぜか自分が非常に賢い人間になったような錯覚に陥ってしまうという、あの厄介な学問のことではないのでご安心を。

 

 

 

  こう見えても、

 

  赤ちゃんです。

 

 

  White Fang

若い人が自分で自分の人生について考えるときの考え方のヒントを与えている本だが、押し付けがましくも説教じみてもなく、こんなことが上手に言えるようになりたいと思う内容で充実している。

 

でも、この分野で最も役立つのは聖書しかない。

 

テモテ第二3:16

聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。

 

聖書を読んで、神の知恵と神の観点から見た人類史から学ぶなら立派な大人になれる。

他に成功できる道はない。

 

White Fang は、歴史はカルテだと思っている。

哲学もカルテの一種だ。おそらく、メンタルクリニックの。

 

哲学なんかで時間を無駄にしちゃいられない。

 

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2012年

11月

27日

「人を助けるとはどういうことか」

著者:エドガー・H・シャイン 訳者:金井真弓

(サブタイトル:本当の協力関係をつくる7つの原則)

 

本当に人の役に立つにはどうしたらよいか、助けたり助けられたりするときの根本にある心の動きを具体的な例を挙げて分かり易く解説している。

会話の仕方の向上にも役に立つ、タイトルに違わず "ヘルプフル"な一冊。

 

チームワークについて書いてある部分で思い出したのはこの聖句。

 

コリント第一12:14-26(抜粋)

実際,体は一つの肢体ではなく,多くの肢体です。

たとえ足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。もしそのすべてが一つの肢体であったなら,体はどこにあるのでしょうか。しかし今,それは多くの肢体であり,それでもなお一つの体です。

目は手に向かって,「わたしにあなたは必要でない」とは言えず,頭も足に向かって,「わたしにあなた方は必要でない」とは言えません。

一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。

 

   フラミンゴの

 

   チームワークでできた

 

   フラミンゴ

 

 

   White Fang

チームには責任の重い役割があり、そうでもない役割もいることに変わりはない。

それでも、目的達成のために誰もが必要な存在であることを責任ある人が認めるなら、

チームは互いに助け合う集団として機能する。

 

逆に、責任ある立場の人が「お前の代わりなんかいくらでもいるんだ」という態度では、チームは本来の目的を達成しにくくなるし、意見を言うことすら難しくなってしまう。

 

果たす責任の違いという意味では確かに高い立場も低い立場もある。

それでも、立場にかかわらず自分の分を果たすことを心から喜ぶ人たちでできた集団、それが成功するチーム。

 

上の聖句を当てはめているクリスチャンが集まって会衆を構成しているところには、この「相互扶助」が機能している。

 

誰もが神の目的の中での自分の役割を知っていてそれを喜んで果たし、立場の違いなど気にせずに意見を交換し、互いに励ましあうことができる。 果たしている責任が小さいからといって申し訳なく思う必要はないし、助けてもらったからといってメンツがつぶれるわけでもない。

 

この本を読む前から、人を助けるとはどういうことかを体験して知り、いつの間にか自分も本当に人の役に立つ行いを実践している ー それが、本物のクリスチャン。

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2012年

11月

08日

「人間臨終図鑑」

筆者:山田風太郎

 

歴史上の人物や近代の有名人・著名人・芸能人の死にまつわるエピソードと人物像を簡潔かつ美しい文体で死亡年齢順にズラッと並べたすばらしい作品。「○○歳で死んだ人々」という見出しの後についている、死に関する格言もまた興味深い。

 

「三二歳で死んだ人々」のトップはキリスト。申し訳程度に数行書いた後『この人物の「臨終」については、「異教徒」にとってまことに書くことが難しい』と結んでいる。

 

まあ、確かに主権、忠節、神の愛、贖いとそれを予表していた古代イスラエル人の崇拝の仕方との相違点、などなど確かにクリスチャンでも書くのは難しい。

でも、それがある程度理解できてからヘブライ書を一気読みすると、泣くほど鳥肌が立つんだけどな。

 

 読者からの質問ー

 

 動物は罪を犯してないのに

 

 なぜ死ぬのでしょうか

 

 White Fang

全三巻からなるこの本の第一巻から、最近話題…とも限らない存命中の人物の2012年現在の年齢で死んだ人々をご紹介。興味を持たれた方は第二、三巻もぜひご覧ください。

 

バラク・フセイン・オバマ・ジュニアの年齢で死んだ人…平賀源内

 

ジュリア・ロバーツの年齢で死んだ人…江利チエミ

 

クリス・ドートリーの年齢で死んだ人…アレキサンダー大王

 

林家三平(二代目)の年齢で死んだ人…アベベ

 

野比のび太の年齢で死んだ人…寺山修司

 

White Fang の年齢で死んだ人…源義経

 

(敬称略)

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2012年

10月

23日

「ヒューマン・エラーの科学」

筆者:村田厚生

(サブタイトル:失敗とうまく付き合う法 )

 

 

本で読んで学んだことがすぐに使えて役に立つと嬉しいものだ。

聖書もこう勧めている。

 

ヘブライ5:14

使うことによって自分の知覚力を訓練(する)

 

人はなぜ失敗するのか、小さな失敗を大きな事故にしないためにどうしたらよいかなど、実際に役立つ「エラー」との付き合い方を分かり易く解説している。

しかも、まさにこの本を読んでいる最中に、この本で学んだことが役に立つからすごい。

 

  失敗しちゃって

 

  はずかしいときは

 

  赤面するって知ってた?

 

 

  White Fang

本文中でカタカナの言葉を使うとき、筆者は最後の長音記号を省く癖がある。

でも、その部分の内容を解説する図の中では長音記号がついている。

(例:エレベータ/エレベーター)

 

同じものを表しているのだから本文と図で表記を統一した方がいいはずなのに、どうしてこの、「本文と図で言葉遣いが違う」というエラーが発生しているのか。それがまさにこの本を読むと容易に分析できるのである。まるでワークブック。

 

ヒューマン・エラーの本の中に、ちゃんと(?)ヒューマン・エラーがちりばめられている。

読み終わる頃には、出版社向けの校正箇所リストとこの本に書かれていることに基づいた再発防止策のレポートが書けてしまうくらい、学んだことを即座に使って読者の知覚力は訓練されていく。

 

 

  んなわけねぇだろ

 

  …ったくもぅ

 

  

  White Fang

同様に、読みながら筆者に「それはお前や!」と関西弁で突っ込みを入れたくなるのが、

 

「99.9%は仮説~思い込みで判断しないための考え方~」という本。

これはひどい。ひどすぎる。

 

どんなふうにひどいのか挙げるときりがないので一言だけ。

筆者は、自分は思い込みで判断していないと思い込んでいる。ご愁傷様。

 

柔軟な発想ができていない人が多いという発想は、すでに固いと思う。

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2012年

10月

09日

「人生案内 もつれた心ほぐします」

著者:野村総一郎

 

以前はオンラインで無料で読めた大手紙の人気コーナー「人生案内」。有料になってからこっち、全く読まなくなってしまった。

 

White Fang の好きな人生案内回答者第二位の野村先生の回答を集めた一冊。

この本を読むと、あーしなさい、こーしなさい、こうすればもっとよくなる…というのが必ずしも良いアドバイスではないということがよくわかる。

 

野村先生が回答するお悩みは、White Fang の好きな人生案内回答者第一位の出久根先生だったら、「ほっとけ」もしくは「好きなようにしなさい」の一言で終わってしまいそうなものばかり(この両回答者の立ち位置の違いを味わうのがこのコーナーの楽しみ方の一つなわけで)。それでも親身に答える野村先生の答え方は秀逸。

 

 

 悩みが何だったか

 

 思い出せないんです

 

 

 White Fang

悩み事を文章に書き出すと、頭の中が整理されて自分の悩みを自分で分析できる。新聞社に投稿できるほどに書き上げたら、もうだいたい問題点も解決策も本人は本当は思いついているはず。そんな人に、あーしなさい、こーしなさい、こうすればもっとよくなる…というのは野暮というもの。

 

野村先生の回答を読むとこの聖句を思い出します。

 

テサロニケ第一5:14

憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい。

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2012年

9月

20日

「画家のノート」

筆者:アンリ・マティス

 

たとえ意味は分からなくても、何か難しい本の題名を挙げて、「オレ、○○って本読んだことあるんだぜ、すごいだろ」と自慢したい人におススメの一冊。内容を本当に理解するためにはたぶん画家にならなければいけない。

 

マティスによると、画家になる前にするべきはただ一つ、「舌を詰める」ことだそうな。

 

自分で舌を切ってしゃべれなくなって、絵を描く以外に自分の意思を伝える方法がなくなれば立派な画家になれると。

 

そうか。つまり、最重要事項以外にも重要なことがあったらそれはもはや最重要事項じゃないってことだ。

 

White Fang の最重要事項はなんだろう。それを本当に最重要とみなしているだろうか。自分にとって、画家になるために舌を詰めることに相当することはなんだろう。

 

ルカ9:58,59,62(パロディ)

「私の追随者になりなさい」

「主よ、わたしはみ跡に従います。ですが、まずせめてミシンの初期投資が回収できるまでWhite Fangで売上をあげることをお許しください」

「ミシンをかけてから後ろのものを見る人は神の王国に十分ふさわしい者ではありません」

 

マタイ9:9,4:22(パロディ)

イエスはWhite Fangという名の男が座って聖書カバーを縫っているのを目にとめ、「わたしの追随者になりなさい」と言われた。すると彼はすぐに立ち上がって、ミシンと革を残してそのあとに従った。

 

より重要なことを見きわめていると言えるのはどちらだろうか。

 

White Fang は、かっこいい生き方のほうを選びます。

(店は辞めないけどね)(使徒18:3)(使徒9:39)

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2012年

8月

31日

「これからの「正義」の話をしよう」

著者:マイケル・サンデル 訳:鬼澤忍

(サブタイトル:今を生き延びるための哲学)

其の二 思考回路のウラと流行語

 (「其の一 黄金律の誤解」はこちら

この本の目的はなんだろう。

この本の元になっている、著者の大学での講義の目的はなんだろう。

 

道徳と正義、その法制化について考えることだろうか。

 

敵の攻撃を受けながらも勇敢に戦って負傷した元軍人には勲章が与えられる。

敵の攻撃を受けながらも勇敢に戦い無傷で帰還したが、エンジン音や破裂音を極度に恐れ夜も眠れず精神科に通うようになった元軍人には勲章は与えられない。

 

つまり、「負傷」した軍人に栄誉を与えるという法律の基準は、「血を流さなければ栄誉には値しない」「心を負傷する奴は弱虫だ」という体育会系の思考回路に基づいている。

この、勲章を授ける基準を定めている法律は道徳的に正しいのだろうか。

 

…まあ、確かに話題としては興味深い。暇つぶしにはなる。

 

お金に困って腎臓を片方売るのは正しいだろうか。それでも足りなくてもう片方の腎臓も売るのは正しいだろうか。死ぬかもしれない、あるいは確実に死ぬとわかっている行為をするのは、本人の意思によるのであれば許されるのだろうか。

どこまでが許されてどこからはいけないのかを国家の権威で法律で線引きするのは正しいことなのだろうか。

 

…まぁ、確かに話題としては興味深い。でもそんなに暇じゃない。

 

 殺すのは食べるときだけ

 

 それがジャングルの掟だ。

 

 守ってねぇのは…   ニンゲンだけだな。

 

 

 White Fang

道徳について考えるなら、命について考えることになる。

そうすると、命はどこから来たのか考えなければならないはずだ。

 

しかしこの本では論議を進める前置きとして

 

「神ナシで道徳について考える」

 

と、ちらっと書いてある。

 

つまり、この本を読めば読むほど、神を度外視した思考回路が身につくことになる。道徳や正義なんてテーマは着ぐるみみたいなもので、何を隠そう真の目的は、物事を考えるときに神を無視する癖をつけさせることにある。

  

だいたい、世の中で流行る物事や言葉は同じ目的を持っている。聖書が教えている事柄と反対のことをさせようとするものが世の中では流行る。

 

いくつか例を挙げてみよう。

 

 この、ヘンな生き物は

 

 まだニュージーにいるのです

 

 ・・・・・・・ たぶん

 

 

 White Fang

等身大

「これがあたしなの。いい加減慣れて。」

等身大の自分でいようとすると成長しなくなる。自分らしくのびのびするという意味だと思ったら大間違いだ。むしろ聖書はこう教えている。

 

エフェソス4:15

わたしたちは真理を語りつつ,愛により,すべての事において,頭であるキリストを目ざして成長してゆきましょう。

 

負け犬

「30代、未婚、子どもなし」

それが何で負けなのか。しかも犬とは。流行語を真に受けるとショックでついつい聖書の教えを忘れてしまう。

 

マタイ19:11

天の王国のゆえに自らを閹人とした閹人がいるのです。それを受け入れることのできる人は,受け入れなさい。

 

つまずいたっていいじゃないか にんげんだもの

完全な人間などいないのだから仕方がない。そう考えていたら結局何をしてもよいことになる。神の許しに安らぎを得ることとそれにつけこむことは全く別だ。

 

ユダ4

不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっている。

 

もっといろいろネタを挙げたいのだがキリがないのでこの辺で。

なにか新しいものが流行ったら、それに含まれているウラのメッセージと、そのメッセージと反対の意味の聖句を思い出そう。

 

それから、共通のウラの目的があるということは、黒幕がいるということも忘れずに。

 

エフェソス6:12

わたしたちのする格闘は,この闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものです。

 

attractionの正体は、distractionなんだ。

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2012年

8月

24日

「悪いのは私じゃない症候群」

筆者:香山リカ

 

自分の行為を咎められるのはいい気分ではない。悔し紛れに同じ行為をしている人を探す。そうして自分が咎められたのと同じようにその人を咎める。

 

…それで気分は晴れるだろうか。

 

この本ではおもに職場を舞台に説明されているが、どの人間関係にもあてはめられる。

他罰と監視の悪循環は人間関係をギスギスさせる。つまり、自分が守っているルールを他人が守っているかどうかいつも見張っている人生は疲れるということだ。

 

 

 

 いーっけないんだぁ、いっけないんだぁ

 

 せーんせーにゆぅたぁろ

 

 

  White Fang

カビが発生した餅をそのまま食べる人、カビが生えたら絶対食べない人、カビの色が目に見える部分だけ削って食べる人、カビが目に見えている範囲より大きめに削って食べる人、その範囲がやたらと広い人…それぞれの基準があってそれぞれが納得しているのだ。

 

「そんなカビの生えたお餅はやめなさい」とか、「カビはもともと目に見えないくらい小さいんだからもっと広い範囲で削らなきゃだめだよ」とか、人の基準にいちいち干渉するのは疲れるのである。

 

干渉される側にとっては、自分では思いもよらない他人の基準をいちいち予測しながら、さらなる干渉を回避するために行動しなければならなくなるのでなおさら疲れる。

 

聖書の教えのあてはめ方にも人それぞれに幅がある。

 

餅の場合と同じで、他の人がどのように聖書の基準を当てはめるか見張るのは疲れる。

見張られる方はもっと疲れる。

 

聖書に書かれている通りだ。

 

ガラテア6:4

むしろ各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう。

 

 

 「肩までつかりなさい」

 

 「100まで数えるのよ

 

 「…るっせぇなぁ あったく」

 

 

 White Fang

White Fang 個人について言えば、聖書を床に置くことができない。

不敬な感じがするからだ。


他の人がそうしているところを見るとどうしても気になってしまう。

カバーがついていなければ余計そうだ。「White Fangのカバー買えばいいのに」と思う。

 

しかしそれはWhite Fang が自分一人で守っているとても小さなルールだ。

他の人がしていることをいいとか悪いとか裁くための律法ではない。

 

自分のルールに従うように他の人に期待したりしない。

自分のルールに従うように期待してくる人のルールには従わない。

 

ただ、聖書の基準に従うだけでいい。

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2012年

7月

27日

「これからの「正義」の話をしよう」

著者:マイケル・サンデル 訳者:鬼澤忍

(サブタイトル:今を生き延びるための哲学)

 

 

其の一 黄金律の誤解

どんなに優秀な脳ミソをお持ちの方たちであっても、聖書にもそれを書かせた神にも従わないで生きていこうとすると、自分の行為や思考の正当性を主張するだけのために人生のエネルギーをほとんど使い果たしてしまって、頭のいい人たちが生きていくのは実にたいへんだということがしみじみわかる一冊。いやはや、ご苦労様です。

 

このジャンルの思考回路の目的は昔から変わらない。正義とは何か、道徳とは何か、それをどのように司法立法行政に反映できるのか…では決してない。

でもこの話題は「其の二」で。

 

第五章のカントの道徳哲学について書いているくだりで、カントの言う「すべての人格を理性的な存在として尊重すること」と、黄金律の違いを説明している。だが、ここでなされている黄金律の説明がよくあるパターンの勘違いなのだ。

 

ルカ5:31

また,あなた方は,自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい。

 

よく読めばわかるのだが、シンプルな言葉だけに勘違いされやすい。

 

「とおりに」の部分から、「自分が思うとおりのことを」と解釈してしまって、「自分にしてほしいことをその通りに人に対しても同じようにしなさい」と思い込んでいる人がほとんどすべてではないか。そのような誤解に基づいて行動して失敗して傷ついたり傷つけられたりした人もいるかもしれない。しかし、それは誤解なのだ。

 

実はこの聖句は、「自分にしてほしいと思うことがあって他の人がそうしてくれることを期待するのであれば、人にもそうしなさい」と言っている。

 

参照資料付き聖書の脚注には、「あなた方は,自分にしてくれるようにとあなた方が願っているとおりに」と書かれている。

 

つまり、この黄金律の意味は、

「自分がしてほしいと思うとおりのことを人にしてもらった時に嬉しいのであれば、人にはその人がしてほしいと思っているとおりにしなさい」ということ。

 

これがカント哲学と同じかどうかを論じても何の価値もないので省略する。

 

よく考えてみれば、「わたしだったらそうしてほしいから」というだけの発想で、自分が望んでもいないことをいかにも親切そうに押し付けられたら、ただの迷惑ではないか。

 

 

別に人間に保護してもらいたかったわけじゃ

ないんだけどな。

 

 

White Fang

極端な例で考えてみよう。

あなたは、じぶんが落ち込んでいるときは一人でひたすら落ち込んで、気が済むまで落ち込んで、もういい加減落ち込むのも飽きたというくらい時間をかけて落ち込んでそれからじっくり元気が出てくるタイプだとする。そんなあなたが心おきなく落ち込んでいるところに、脳ミソまで全部筋肉でできていて神経などないかのような人(つまり、無神経な人)がいきなり登場し、「自分だったら大きな掛け声でビンタされたら気合が入るから」という純粋で美しい親切心からあなたの前に突然登場し、「元気ですか―」の雄たけびとともにいきなりあなたを力一杯ビンタしたらどうだろうか。一発のビンタですぐに元気が出ないあなたを見たその人が、すかすさずさらなる親切を示して、二発三発とビンタを繰り返したらどうだろうか。やっぱり聖書の教えは真実だ。黄金律って素晴らしいと思うだろうか。(※ 実在の人物のパフォーマンスを批判するものではない)

 

「自分だったらどうしてほしいか」と考えるのはスタート地点であって、目標ではない。まして、「そのとおりに」すればよいわけでもない。

 

恋愛でこの勘違いをやってしまうと確実に失敗する。異性がお互いに「自分だったらこうしてほしいから」と考えて接していたらすれ違うこと間違いなし。そしてすれ違ったときに、「そんなのヘン」とか、「普通は~でしょ」などと言って否定してしまったら確実に深く傷つける。自分にして欲しい通りに相手にしていないからだ。

「彼は男の子だから、女の私がしてほしいと思うことをそのまましてあげても喜ばないかもしれない」

「彼女は女の子だから、男の自分とは違うことを望んでるかもしれない」

黄金律を正しくあてはめて考えれば、異性に自分を尊重してもらいたいという気持ちを、異性である相手も持っていると発想できる。自分が異性にしてもらって嬉しいとおりのことを相手にしてほしいのであれば、相手が異性にしてもらって嬉しいと思うことはなんだろうかと考える。それが、黄金律。

 

政治哲学の論議中に黄金律を登場させるくらいに聖書を知っているはずの国民でも同じ勘違いをしていることにはちょっとがっかり。

 

せっかく聖書が正しいのだから、正しくあてはめなきゃ。

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2012年

7月

13日

「脳をやる気にさせるたった一つの習慣」

筆者:茂木健一郎

 

達成すると喜びを味わい、またそれを味わいたいと思って行動する。

それが"やる気"というもの。

 

ではまだ達成していなくて喜びも味わっていない物事に対してはどうやってやる気を出すのか。あるいは、何らかの理由で喜びを感じなくなってやる気が出ない場合はどうしたらよいのか…。

 

脳の仕組みからやる気の出し方を分かり易く解説しているとても読みやすい一冊。

ただ、「その『一つの習慣』ってナニ?そこだけ知りたい!」と思う方は前書さえ読めばよろしい。

 

聖書の言葉でいえば、この聖句がこの本で言うやる気を出す方法に近いかも。

 

箴言7:3

「それ(神のおきて)をあなたの指に結べ」

 

 


 やる気あんのか!?

 

 いや、別に…

 

 

 White Fang

 

指は物事を行うときにいつでも目につくもの。そこに神のおきてが書いてあれば、わたしたちを正しい方へ導く神の教えを常に思い起こすことができる。それを当てはめて行動すれば成功し、喜びを味わい、次の行動のためのやる気が起きてくる。

 

このいいサイクルは、行動する以前でもスタートさせることができる。達成したいことをよく思い起こして成功している自分のイメージを思い描く。すると、イメージだけでも脳は達成感を味わい、結果、やる気が起きる。

 

フィリピ4:8

何であれ真実なこと,何であれまじめなこと,何であれ義にかなっていること,何であれ貞潔なこと,何であれ愛すべきこと,何であれよく言われること,また何であれ徳とされることや称賛すべきことがあれば,そうしたことを考え続けなさい。

 

積極的な考えや目標をいつも見えるところに書き出し、何度も思い返して成功をイメージするなら、脳ミソの中に沸々と意欲が湧いてくる。

 

おっと、前言撤回。ここまで読んだ方は、もうこの本の前書すら読む必要はない。

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2012年

7月

06日

「本当にあった嘘のような話」

筆者:マーティン・プリマー

 

こ、こんな偶然が!?と思うエピソードが満載。

ありえない確率の出来事がありえたときの話。

それによって命が助かった人も、人生が大きく変わった人もいる。

 

でも、どうして珍しい出来事って神秘的に感じるのだろう。

 

十年に一度の異常気象は5さいの ”ぼく” にとっては驚天動地だ。

でも100歳の老人にとってはもうかれこれ10回目。「まぁ、長く生きてるとたまにこういう年もありますなぁ」といった感覚だろうか。

 

百年に一度観測できる天文イベントが自分の生きてる間に見られるとしたら、それは嬉しいことだろうか。

もし千年生きるとしたらまだあと9回チャンスがある。

(いや、別に先日の皆既日食を、朝食を食べながら「なんか今日暗いなぁ」で見のがしてしまった負け惜しみではない。)

 

千年に一度の珍事も、もし百万年生きるとしたら一千回体験できることになる。千回も繰り返されればもはや珍しくも神秘的でもないだろう。

 

非常に低い確率のことが起きたからといって、なんでもかんでも神秘性を感じて感激してはいけない。ただ、人生が短く、経験が浅いから、珍しいことが起きたときにびっくりするだけなんだ。

 

特に、聖書を学んで、自分の将来が永遠であると信じるならなおのこと。

 

永遠と比べれば、「本当にあった嘘のような話」も、どうってことはない。

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2012年

6月

30日

「春にして君を離れ」

筆者:アガサ・クリスティ

 

推理小説でもホラーでもない、なぜかクリスティ作品のジャンルの中ではロマンスに分類されているが、決してロマンスでもない、読んで楽しむ小説ではなく、読んでじっくり考える作品。

 

例えば…

 

良かれと思ってしていることって本当に喜ばれているのか。

自分が幸福なのは周囲の遠慮に気付いていないだけではないのか。

自分が「いい人」な行動をするのは問題の本質から目を逸らしたいときではないか。

「君の好きなようにしなさい」と言うのは、妻を人として成長させるという夫の責任を果たすのがめんどくさいときではないか。

 

馬は軽車両らしいですね。
馬は軽車両らしいですね。

 


すべてのことにおいて正直に。

 

ヘブライ13:18

 

 

自分にも正直に。

 

White Fang

自分に正直になっていつもありのままでいられないと本当に幸せにはなれない。

"自分"というキャラクタを作って演じていては幸せにはなれない。

 

特に、模範的なクリスチャン人格というキャラクタを作っている人は、もうそれ以上成長できない。たぶんそういう人はこの小説の主人公と同じで、この小説を読んでも自分に関係あるとは気づかない。「ブログで紹介されてた本を読んで励まされました~」とか言うのが精いっぱい。自分の子どもが主人公の娘と同じ気持ちで育ってきたかもしれないということにもたぶん一生気づかない。

 

立派なクリスチャンになりたい。いい親になりたい。ちゃんとした動機はあってもそれを実現させるための方法が間違っていると周囲の人たちも巻込んで不幸にしてしまう。

 

上手に"模範的なクリスチャン"っぽくしゃべれるようになるのが成長ではない。

霊の実(のようなもの)で本心を巧妙に隠せるようになることが成長ではない。

 

なぜ主人公が自分を見つめ直すのに最後まで失敗するのか。

正直に自己吟味するなら、そこからきっと多くのことを学べるはず。

 

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2012年

6月

20日

「天才物理学者たちの世界を欺いた科学10大理論」

筆者:千代島雅

 

エントロピーの法則について語っている項で、筆者は、

「エントロピーの法則なんて間違っている」という意味の主張をしている。

 

主張の裏付けとして、エントロピーの法則が働くスタート地点がおかしいといっている。

 

話の流れを要約すると…

 

例えば、一般に分かり易くエントロピーの法則を説明するとき、

氷は低エントロピー状態、水は氷よりもエントロピーが高い状態。

コップの水の中にある氷がとけていくように、物質は低エントロピー状態から高エントロピー状態に向かう…と説明される。

 

でも、自然な状態でコップの水の中に急に氷が出現することはありえない。

つまり、エントロピーの法則が働き始める最初の低エントロピー状態自体が自然発生しないから、自然界にエントロピーの法則が働いているとは言えない。

 

水の中に氷が出現するとしたら(まさか神様に登場していただくわけにはいかないので)次の三つである。

 

…と言って三つの可能性を挙げる。(昔から氷だった…とか)

…次に、その三つの可能性があり得ないことを説明する。(昔から氷だったのなら、観察し始めた時にタイミングよくとけはじめるなんてヘン…とか)

…だから、エントロピーの法則が働く状態が発生することが自然界ではありえないから、エントロピーの法則なんて間違っている。

 

とまあ、こんな感じ。

 

 

 

 

  この実験のために

 

  塔を傾けておきました

 

 

   White Fang 

 

素直なクリスチャンの立場からこれを読むと、この文章の中では、エントロピーの法則が働く状態が発生する可能性がぜんぶで4つ挙げられている。

 

そして、そのうちの3つだけが否定されていて、4つ目がまだ残っている。

 

エントロピーの法則がおかしいというよりむしろ、エントロピーの法則に4つ目の可能性がどのようにかかわっているのか検証する方が科学者が次にするべき論理的な思考の順序なのではないか。

 

本物の科学者なら自分の能力の低さが原因で否定できない可能性を無視してはならない。

 

その4つ目の可能性が正しいとすると、物質が高エントロピー状態に向かっていくならいちばん最初はなぜ低エントロピーだったのか説明できるし、エントロピーの法則が働いているなら物質はどんどん無秩序になっていくはずなのに宇宙が驚くほど規則正しい理由もわかる。

 

そして、エントロピーの法則を発見したとされているウィリアム・トムソン(ケルビン卿)は、次の聖書の言葉を研究したことがこの法則発見の一助になったといわれている。

 

詩編102:24-27

 

わたしは言いはじめました,

 

「わたしの神よ,わたしの日の半ばにわたしを取り去らないでください。


 あなたの年はすべての代に及びます。


 あなたは昔,この地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。


 それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は立ちつづけます。


 それは衣のようにみな古びてしまいます。
 あなたは衣服のようにそれを取り替えられます。そしてそれは用を終えるのです。


 しかしあなたは同じであり,あなたの年が全うされることはありません。

問題は、エントロピーの法則が正しいかどうかじゃない。

 

すべての可能性を考慮するかどうかということだ。


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2012年

6月

16日

「あなたの天職がわかる16の性格」

著者:ポール・D・ティーガー、バーバラ・バロン

 

White Fang 開店の原動力となった貴重な一冊。

 

二択の簡単な質問に答えると16種類の性格に分類され、それぞれの性格の解説と適性職業が紹介される。

 

White Fang 本人の結果は「芸術家タイプ」。

こだわりポイントを妥協することなく、良いものを作るのに時間を厭わない。

 

そこまで褒められちゃぁ開店しない訳にはいかんでしょう。 

 

 

 

  怠惰な者よ、あなたはいつまで

  横たわっているのか。

  いつ眠りから起き上がるのか。

 

  箴言6:9

    -新世界訳聖書ー

 

芸術家タイプに向いているその他の職業は…

 

… お、伝道者。

「他人が精神的に向上するのを助けることに喜びを感じるタイプだから」か。

 

確かに。自分のことを言い当てられた気分だ。

どうもこの本の人間分析は信憑性がありそう。 

 

そういえば、テモテ第二4:2 の「術」は、英語ではアートだったな。

 

 テモテ第二4:2

み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり,辛抱強さと教え[の術]とを尽くして戒め,けん責し,説き勧めなさい。

 

Ⅱ Timothy 4:2

preach the word, be at it urgently in favorable season, in troublesome season, reprove, reprimand, exhort, with all long-suffering and [art of] teaching.

 

なるほど、芸術家タイプが伝道者に向いてるわけだ。

 

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