「ご冗談でしょう、ファインマンさん」

著者:リチャード・P・ファインマン 訳者:大貫昌子


 

満載のいたずらごころを標準装備した平均よりだいぶ優秀な脳ミソを持ち合わせて生まれてきた人物が、好奇心を満し疑問を解決するためなら人がどう思おうとちっとも構わないという価値観を獲得したらどんな人生になるか。

 

持ち前の良くできた頭脳をフル活用したお茶目ないたずらがお茶目じゃ済まなくなったり、好奇心を満足させるためにひたすら突っ走る姿勢がひょんなところで役に立ったり、お役所仕事や制服・身分・階級の無意味さや手段の目的化や中身が無くても形式を重んじるしきたりのあほらしさを心底憂えてあくまで抵抗する態度が生み出したハプニング…

 

ノーベル賞受賞者の半生記というよりも、「好奇心いっぱいの人間」の自伝的エッセイ。


教科書みたいな真面目な伝記ではなくて、「偉人とんでもエピソード集」的な軽い読み物という仕上りになっているところが本人の性格とエピソードの内容にぴったり合ってる。ついつい何度も読んでしまう、大変愛嬌ある一冊。でも学べることはとても多い。

 

ハンコ無いので肉球でいいですか?
まぁそう言わず…ハンコ押すだけでいいんですから




お役所なんぞくそくらえだ



R.P.ファインマン

ファインマン氏がブラジルで教えた学生たちは教科書の記述を暗記してテストで高得点をとっても、それが実際には何なのかは全く理解していなかったのだそうだ。

 

例えば、

「摩擦ルミネッセンスとは何か」

「結晶体をつぶした時に出る光のことです。」

「では摩擦ルミネッセンスが観察できる身近な物質をひとつ挙げてごらん」

「・・・・・・(しーん)」

といった感じだったらしい。すべてが。

 

暗記してテストに通るだけの勉強にいったい何の意味があるのか、そんなものが科学か!

 

へい。お怒りごもっともです。




 体を張って実験するのが


 真の科学者ってもんです。



White Fang 

テストや課題の提出そのものが第一義という日本の教育制度に慣れ親しんで育った私達も学ぶ内容が科学から聖書になっても同じ落とし穴にはまってしまう事がある。

 

知りたいから学ぶのではなく、テストのために覚える。感想文を書くために本を読む…。

 

目立った点で注解するために今週の聖書通読範囲を読む、「近づきなさい」の黙想のための質問は、予習して質問の答えをそれらしく注解できるけど、黙想はしてない…。

 

「幼い子どもは,初めは答えをただ読むだけかもしれませんが,やがては自分の言葉で考えを表現できます」(塔2006.11.1.P.30-12)

という内容をただ読むだけの注解をしたのは幼い子どもではない。大卒の25歳だった。

注解の回数を増やせという助言が与えられた次週に生じた惨事であったと記憶している。

落ち穂拾いに来るぐらいなら一緒に働けばいいのよ
落ち穂拾いに来るぐらいなら一緒に働けばいいのよ

 

 落ち穂を落とさないように

 

 きっちり収穫するのは

 

 罪になりますか?


  (レビ記19:9) 

 

White Fang 

とはいえ、手段が目的化して本末転倒状態でも、結果的にそれが役に立つこともある。

 

こころからじゅうぶん奉仕するための取り決めが、会衆内で競争心と見栄の張り合いを助長しているとしても、そこから何か良い良い結果が生まれてくると信じたい。

 

時間を入れるために留守だとわかってる家の玄関に立ってピンポンする人が何千人もいればそのうちきっと何かが成し遂げられるはず。だからもう批判はやめよう。

 

パウロだってこう言ってる。

 

フィリピ1:15-18

 確かにそねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますがほかの者たちは善意によってそうしています。 後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。 

しかし前者は闘争心からそうしているのであって純粋な動機によるのではありません。 

ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。

そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです。

 

ちょっとくらい目的をはき違えても許してあげようじゃないか。

 

でも、自分はブログを更新するために本を読んだんじゃないとアピールするためにも、

学んだことが実際にはどんなことなのか、White Fang 自らやってみた。↓

水晶をこすり合わせて得られる非発熱性発光現象の確認。0:16から画面が暗くなります。