「マー先のバカ」

著者:杉本治

 

急いでなくても全力疾走するのが子供。

慌てていても全力では走らないのが大人。

最初から、慌てなくていいように自分のことや周囲の環境をマネジメントして、いつでも落ち着いて行動、判断できるのが本物の大人。

 

White Fang は大人と子供の違いをこのように考察している。

 

だが、筆者は小学校3年生で全力疾走をやめてしまったそうだ。

そして、小学校5年生のとき飛び降り自殺した。この本は日記を中心に、彼の書き遺した作品を一冊にまとめたもの。山田かまちにも似た繊細な芸術性が溢れている。

 

 わたしはその人を

 

 復活させます。

 

 

  新世界訳聖書

     ヨハネ6:40

 

「自分」というものは、周囲の期待に応えようとするところから発達するらしい。

 

周囲は自分にどんな役割を果すように期待しているのだろうかと考え、その役割を引受けて行動する。

どんな役割が期待されているかわかっていても、その役割の通りに行動したくないと思うこともある。

それを繰り返して「自分」はできていく。

 

類稀な強い感受性を持った小学5年生に対して、もしも誰かが不自然で過剰な役割期待をかけたのだとしたら。

その期待通りに行動したくないと思ったとき、それほど成熟していない「自分」は、役割を放棄する方法として死以外の選択肢を見つけられなかったのだとしたら。

 

悲劇としか言いようがない。

 

誰がどんな期待をかけたのか。いずれにしろ彼が感じた期待は、つまらなくて、あほらしくて、ばかばかしくて、無意味で、ナンセンスで、面白くもなんともなくて、そんなことを期待する人たちでこの社会は出来上がっているんだということに彼は絶望しただろう。

 

 

 

  有害な者は

  曲がった話し方をして

  歩いている。

 

   新世界訳聖書

     箴言6:12

 

残念だが、同じ現象はクリスチャン会衆でもおきる危険性がある。

 

わたしたちは不完全なので、クリスチャンの仲間に間違った役割を期待することがある。

わたしたちは不完全なので、クリスチャンの仲間からの期待された役割をどこまで演じて応えればよいか、その判断を誤ることがある。

 

あるいは、

「あの二人はどうも気が合うみたいだから結婚したらいいのに」とか、

「今回の研究記事ちょっと難しいけど、きっとあの姉妹が調べて注解してくれるから自分は予習しなくていっか」などなど、時には期待すること自体が間違っていることもある。

 

はたまた、

「みんなはぼくのこと『あの兄弟は50時間は無理でも30時間ならできる』って思ってるんだろうな」と考えて、あまり純粋ではない動機で補助を申込んだり。

 

挙句の果てに、

インタビューに呼ばれて「わたしには50時間は無理でしたが、30時間で補助の喜びを味わうことができました。この憐み深い取決めに本当に感謝しています。」だなんて、みんなの期待通りのセリフを言ったりして。

 

期待に応えるだけの人生はつまらない。

もしもその期待が誤ったものなら、それに応えるために生きるのはとてつもなくつらい。

 

 

 「カメラだぞ。熊みたいにしろ」

 「いつも通りじゃだめなの?」

 「鮭銜えてくるの忘れた~」

 

  White Fang

  

期待に応えようとして本当は引受けたくなかった役割を演じ続けている間にいつのまにかでき上がってしまった『自分』は、聖書の原則に従ってとっとと捨て去ろう。

そうして、神から期待された役割を果たすことに専念しよう。

 

エフェソス4:22-24

古い人格を捨て去(り),あなた方の思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着け(なさい)。

 

他の人に間違った期待をかけて、いつの間にか人格形成を侵害しないよう気を付けよう。

そうして、神がその人に期待しているのと同じことを期待できる善良な人になろう。

 

10歳で小説を書く小学生の文章能力をフル活用しても「バカ」としか表現できないような人物だと思われてしまう過ちは誰だって犯したくて犯すものではない。