筆者:香山リカ
自分の行為を咎められるのはいい気分ではない。悔し紛れに同じ行為をしている人を探す。そうして自分が咎められたのと同じようにその人を咎める。
…それで気分は晴れるだろうか。
この本ではおもに職場を舞台に説明されているが、どの人間関係にもあてはめられる。
他罰と監視の悪循環は人間関係をギスギスさせる。つまり、自分が守っているルールを他人が守っているかどうかいつも見張っている人生は疲れるということだ。

いーっけないんだぁ、いっけないんだぁ
せーんせーにゆぅたぁろ
White Fang
カビが発生した餅をそのまま食べる人、カビが生えたら絶対食べない人、カビの色が目に見える部分だけ削って食べる人、カビが目に見えている範囲より大きめに削って食べる人、その範囲がやたらと広い人…それぞれの基準があってそれぞれが納得しているのだ。
「そんなカビの生えたお餅はやめなさい」とか、「カビはもともと目に見えないくらい小さいんだからもっと広い範囲で削らなきゃだめだよ」とか、人の基準にいちいち干渉するのは疲れるのである。
干渉される側にとっては、自分では思いもよらない他人の基準をいちいち予測しながら、さらなる干渉を回避するために行動しなければならなくなるのでなおさら疲れる。
聖書の教えのあてはめ方にも人それぞれに幅がある。
餅の場合と同じで、他の人がどのように聖書の基準を当てはめるか見張るのは疲れる。
見張られる方はもっと疲れる。
聖書に書かれている通りだ。
ガラテア6:4
むしろ各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう。

「肩までつかりなさい」
「100まで数えるのよ」
「…るっせぇなぁ あったく」
White Fang
White Fang 個人について言えば、聖書を床に置くことができない。
不敬な感じがするからだ。
他の人がそうしているところを見るとどうしても気になってしまう。
カバーがついていなければ余計そうだ。「White Fangのカバー買えばいいのに」と思う。
しかしそれはWhite Fang が自分一人で守っているとても小さなルールだ。
他の人がしていることをいいとか悪いとか裁くための律法ではない。
自分のルールに従うように他の人に期待したりしない。
自分のルールに従うように期待してくる人のルールには従わない。
ただ、聖書の基準に従うだけでいい。
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