「死ぬ瞬間」

著者:エリザベス・キューブラ・ロス

訳者:鈴木晶 (完全新約改訂版)

 

 

医療・看護・福祉の何れかの勉強をしたことがある人なら聞いたことがあるはずの名前。

わずかな余命を宣告されて死に直面している患者への率直なインタビューをとおして、

死の直前の人々の心の変遷と典型、それに伴う医療・福祉職のあり方を論じている。

 

有名な「死の受容5段階」は以下の通り。

 

①否認:自分が死ぬのはうそではないかと疑う

②怒り:なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲にぶつける

③取引:なんとか死なずに済むようにしようと試みる

④抑鬱:なにもできなくなる

⑤受容:最終的に自分の死を受け入れる

 

もちろんみんながこの段階を追うわけではない・・・ということがちゃんと書いてあるので、この本を批判して、すべての人にこの5段階があてはまるわけではないとかいって何だか分かったようなことを書いている人は、たぶんちゃんと読んでいないのである。

 

「こ、これはわるい夢だ」→ 否認

「他にも魚はいくらでもいるだろ」→ 怒り

「あ、見てそこ、UFO !」→ 取引

「気力も尽きた。まな板の上の鯉」→ 抑鬱

「煮てよし、焼いてよし、でもタタキはイヤ」→ 受容

 

White Fang 

実際、筆者自身も死にゆく人の心を精神科医として研究するところからスタートしたものの、いつしか科学的見地を離れ、霊能者とタッグを組んで死後の世界にどっぷりはまる。ということは彼女自身は最初の段階である「否認」から抜け出せなかったのだ。

ほんとは死後の世界を信じていたのではなくて、ただ死ぬのが怖かったんだろう。

 

・・・ま、それはいいとして、クリスチャンはこの5段階を踏むべきだろうか。否である。

 

イエスには「怒り」と「抑鬱」の段階はなかったし(マルコ10:45)

ヒゼキヤなんか最初っからいきなり「取引」してる(列王記第二20:1-3)。

そもそも、一時的な感情としての「否認」はあったとしても、根本的な意味での「否認」はだれにとってもあり得ない。

 

伝道の書9:5

生きている者は自分が死ぬことを知っている。



 死んだのではない、


 眠っているのです。


 ルカ 8:52



聖書を学ぶと、結局人は皆わずかな余命を宣告されて死に直面している状態だとわかる。

(創世記2:17, 詩編90:10を読む

 

そして、死という敵にはだれも勝てないということもわかってくる。

なので、クリスチャンなら、最初から「受容」の段階である。


この種の「受容」が理解できないクリスチャンは、信仰を「取引」と勘違いする。

あるいは、その人の「怒り」は信仰でコーティングされて、とてもクリスチャンとは思えないような頓珍漢な願いを祈るようになる。

 

最初から「受容」の段階で普段生きているクリスチャンが医師からわずかな余命を宣告された場合、踏むべき段階はおそらく次の3つである。




踏むべきでない階段。



White Fang 

① 信仰:今まで自分が示した神への愛と信仰を神は忘れないという確信。

② 希望:自分が死のうがなんだろうが、神のご意志は必ず成されるという将来の確実性。

     そして、ご意志が成された時には死がなくなるので自分は復活するという保証。

③ 愛 :ここで死んだら、「死なない」と欺いた蛇がほんとにうそつきだったってことが

     証明できるぞ。神の役に立って死ねるんならま、いっか。という喜び。


コリント第一13:13

しかし今,信仰,希望,愛これら三つは残ります。しかしこのうち最大のものは愛です。


 

 彼女がいなければ、

 この作品も、

 

 もしかしたら

 " 聖書カバーのWhite Fang " も

 

 生まれなかったのかもしれない。

 

White Fang 

White Fang の人気商品、「ドルカス」誕生のきっかけとなった昭和2年生まれの愛すべき姉妹が2014年末に亡くなった。彼女の生き方は亡くなる数年前から既に「受容」だった。

その証拠にこんな会話を小耳にはさんだことがある。

 

「わたし今月で50歳になったんだけど、この年になるとようやく世の中のことがわかるようになって、改めて、80年も生きてる姉妹のこと尊敬します。」

 

「まぁ。そうですか。姉妹も頑張って生きてきたんですねぇ。

 でも、これからもっといろんなことがわかるようになりますよ。」

 

・・・深い。

いったいぜんたい、どんなすごいことがわかっちゃったのか、多くは語らなかったが。

 

いずれにしろ、彼女が数十年間み名のために示した愛が忘れ去られることはない。

ご意志が成されたそのときには、その喜びをいっしょに味わおう。

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コメント: 2
  • #1

    OKAMO (土曜日, 14 3月 2015 20:10)

    ある兄弟は死は勝利だと言っていました。最後まで忠実であるならそうですよね。でももし私が今自分の命がわずかだと宣告されたとしたら、本来なら最初から「受容」の段階であるのにわざわざ①に戻り②③④を経て⑤に至るような気がします。もちろん一時的な感情ではありますが…私が円熟していないだけなのか、若くはないですが笑、高齢でもないからか、それともやはり、人は死ぬようには創造されていないからでしょうか…早く最後の敵が打ち砕かれる時が来て欲しいです。
    ところでWhiteFangさん、最近のタブレット普及についてどう思われますか(*^^*)?集会や奉仕にも聖書を持たずタブレットのみの方が増えているように思います。もちろん私も所有していますのでそれ自体は否定はしないのですが、携帯電話すら使いこなせないおばさま姉妹がタブレットのみで奉仕に来られ、家の人の玄関先であたふたされているのを見聞きしますと(^◇^;)…笑。ここはお幾つになられても新しい分野にチャレンジされる精神は素晴らしいと思うようにしています。by本当に旨いサンドウィッチの作り方 私としましては恐らく来月末に発表されるであろう改訂版を楽しみにしています。

  • #2

    White Fang (日曜日, 15 3月 2015 00:04)

    OKAMOさん、コメントありがとうございます。
    質問されるとまじめにしか返事ができない性分なのでお答えしますが、玄関先であたふたするタイプの方はたぶんタブレットじゃなくてもあたふたなさると思うので、ご本人が、あたふたしたことで自己憐憫に陥ったりしていない限りは、OKAMOさんのおっしゃる通り良い点に目を向けて暖かく見守って差し上げるのがよいと考えます。「道具を使いこなす」という観点から言えば、そもそも聖書自体を使いこなすことがだれにとっても至難の業であるので、タブレットをスマートに使いこなせなくても結局大きな差ではないのではないかと思います。イエスは「巻物」の形状の聖書を使用しましたが、音信が地の果てにまで広がる大きな弾みになったのは「本」の形状の発明と印刷の発明によるところが大きく、現在その発明が「デジタル」の形状になっているというだけの話なので、紙の聖書がよいとかタブレットの方がよいとか、タブレットは補足的に使用するもので紙の聖書は今まで通り使う方が望ましいだとか、啓示20:12の巻物は本当に紙の「巻物」なのか、いやはや楽園では「新しい巻物アプリ」が配信されるのだ…などといった議論は、OKAMOさんのようなハナシのわかる方と一杯やりながら楽しく語り合うテーマとしてはとても面白いと思いますが、ハナシのわからない方とであれば不毛すぎて時間とエネルギーの無駄なので会話の輪の中からそーっと抜け出す所存です。
    White Fang はタブレットは使っていません。iPhone ユーザーであり、タブレットでしたいことのほとんどがiPhone で事足りるのが主な理由ですが、会衆内のタブレット使用者がタブレットを使用していない自分よりも効率よく何かを成し遂げているとは到底思えないという優越感にしばらく浸りたいという曲がってねじけた根性の持ち主であるということも告白せねばなりません。

    おもしろい話題を振っていただいたのがうれしくて異常な長文書いてしまいました。

    改訂版日本語聖書の発表、楽しみですね。

    ちなみに、White Fang が余命わずかと宣告されたら、偉そうにブログを書いておきながら、現実には④⇔⑤を行ったり来たりするのではないかと予想しております。